この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



第三部 昭和編


長崎のメーデー


大正九年(1920年)五月二日の日旺日、日本でははじめてのメーデーが、東京上野公園の
両大師まえ広場で開かれた。 
一八九○年 全欧米における最初のメーデーから、実に、三○年後のことであった。
長崎では それよりおくれて、七年後の昭和二年(1927年)五月一日、組合同盟ならびに
日労党長崎支部主催のもとに 長崎市八千代町にあった電柱置場の広場で、今村 等らが
主催して開かれた。 演壇はなく、たかく積まれた電柱がこれになった。


午前一○時から 今村会長が主催者を代表して あいさつ、ついで、参加代表の演説がおこな
われた。 この日の参加者は約八○名ほどで、デモ行進するには参加者が少なかったため、
これをとりやめ 正午ちかく散会した。
なお この日は警戒のため くりだされた警官や、検束のためのトラックが多かったほどである。
翌年おこなわれたメーデーは、長崎においては、分裂メーデーとなった。


この年は 総同盟 第二次分裂いらい、長崎においても、組合同盟のなかで、今村 等らと
決別し、もとの総同盟に復帰を決意し、あらたに印刷技工組合と はかり、長崎において あら
たに「長崎労働組合」を一月三日 結成した年であった。
こうしたことから、メーデーも 分裂メーデーのかたち となったのである。
組合同盟の主催するメーデーは、出島岸壁の広場に 三○○名ちかくが集まった。
そのなかには、浦上方面の人々も これに加わった。
気勢をあげたデモ隊は、出島から諏訪神社公園まで、デモ行進をおこなった。


途中 伊勢崎町附近の交叉点で、県の特高課長らと デモ隊との小ゼリ合いがあったが 問題
なくおわった。 そのころ、午後一時 出島岸壁からは、デモをすまして、今村 等はその日の
午後一時の上海丸で、上海経由 南京へ国民政府にまねかれて出発した。
一方 「長崎労働組合」側は、この年のメーデーには デモ行進はおこなっていない。
彼らはつぎのような 檄 をとばしている。


       ―檄す!!尊き 血涙史を織りなす 痛快 極りなき 五月一日のメーデーは来た。!!


資本家の横暴 官憲の弾圧 何をか躊躇せんや、吾等 労働者階級の生存権は 奪はれて行く、
家族と共に 行路に迷ひ、飢に泣く。 あヽ この怨は 深く 刃の如く 喰いこんで、胸底に逆流する
血潮は高鳴りを 覚ゆ。 立て。 奮い立て 熱血迸る 鉄腕に 正義の刃を 強く握れ。 
猛火の如く 資本の牙城に 肉迫力せよ!!
組合員は総動員して 未組織労働者の団結と組織の勧誘に、全力を注げ、来る廿八日より
宣伝隊を作り 猛烈な活動を開始す。 となっている。


翌年 昭和四年(1929年)のメーデーでは、長崎労働組合(社民党系)は、諏訪神社 丸馬場
公園に、一○○数拾名あつまり、西小島町まで デモをおこなっている。
五年のメーデーには、おなじく彼らは デモ規制がきびしくなったところから、若い青年 二五名
が、甑岩に登山メーデーをおこない、かねて、街では唱えなかった労働歌を、腹一杯うたい、
赤旗をたてて酒杯をあげた。


そこへ特高が 見えかくれに 彼らの動静を探っていたことがわかり、山のうえから投石して
おいかえす といった一幕もおこった。
昭和六年(1931年)のメーデーは 長崎市においては、社民党指導のもとにおこなわれた。
支持団体の、長崎労働組合、日本海員組合長崎・長崎印刷技工組合ら 一二○名が、午前
一○時までに諏訪公園 丸馬場に集合し、演説をおこなった。 五隊にわかれ、組合旗や、 


一、賃金値下、時間延長、解雇 絶対反対、
一、重要産業を 国家に奉還せよ、
一、自由労働者の災害保障法を 制定せよ、
一、失業者を 喰わせろ 働かせろ、
一、最低賃金の確立


などのプラカード、幟などを たからにおしたて、メーデー歌をうたい、デモにうつった。
“菜ッ葉服”ハッピ姿の一隊は、炉粕町から桜町、小川町、長崎駅前をとおり、左折し、税関
まえから さらに左に曲って 広馬場にでて、館内町 説教所跡まで行き 解散した。
特高課長 指揮のもとに、メーデー警戒のため、当日は 一○○余命の警官が動員され、厳重
に警戒にあたったが、この日のデモは平穏におわった。


ところが後で 大きな問題がおこった。
今村派の大衆党と、一方の社民党との あいだにメーデーの動員数が原因して、両者の衝突
がおこった。 大衆党の方が少なかったのである。
その日の午後二時ごろ、大衆党員の一人が、岩川町の社民党支部 事務所を おとずれ、
なぐり込みをかけた、たまたま いあわせた書記長は、持ち出した 旗ざおの槍で応戦し、横腹
をさし、負傷させ、自分もまた負傷する といった事件がおこった。


このことから、おさまらないのが、なぐり込みを かけられた社民党や、労働組合系であった。
メーデー茶話会 を催すため、あつまった六○数名のものは、茶話会後、大衆党員に暴行を
うけた書記長を、自宅に護送するため、約四○名が、浜の町の繁華街をとおるさい、手に手に
プラカードを持って、メーデー歌を 堂々と合唱して とおった。
そして、歌ってはならない とされていた 赤旗の歌などを大声で歌った。


浜町の交番の巡査がでてきて、無届の このデモに警告したが、激昂していた彼らには聞こえ
なかった。 県庁前をとおり、長崎警察署前も とおったが警察署は静まりかえっていた。
意気揚々と 行列して大波止にむかったところ、電車通りに出たとたん、張り込んでいた刑事たち
のため、一網打尽の検束となり、主だったもの一二名が 検束留置されるという事件がおきた。


昭和一○年(1935年)における 長崎市のメーデーは 総同盟系の長崎海友同志会、印刷
技工組合、海員組合 長崎支部共催のもとにおこなわれ、五月一日 午前八時ごろから 約三○
名が、唐八景に登山して集合し、林海員組合 長崎支部長の演説のあと、茶話会を おこなう
という情景であった。 メーデーに集まった人々より、警戒の警官のほうが多く、さながら警官
メーデーの勧があったという。


昭和一一年(1936年)三月二四日、ときの内務省は メーデーを全国的に禁止を布令した。
これにたいし、三月三○、三一日の全評、労組会議はメーデー禁止に反対したが、四月九日
においては 止むなく メーデー中止を決定するなど、支那事変の拡大、愛国労働運動のおこり
とともに、幾多変遷をたどりながらも、抵抗に抵抗を かさねながら おこなわれてきた長崎の
メーデーも、その後、終戦後まで おこなわれることは なかったのである。


終戦後 最初のメーデーは、昭和二一年(1946年)、県下のメーデーについては、総同盟
長崎事務局が主動力となり、県下の各地区において、メーデーが実施された。
当日は降雨のため、駅前集合の予定を変更し、長崎市本下町 公設市場前の広場に集合した。
参加人員は ほぼ二万人にたっした。
午後一時開会、社会党代議士 今村 等が司会者として、メーデーの意義について述べ 開会
の辞とし、労働者大衆の団結を強調した。


つづいて 端島炭礦労組のブラスバンドを先頭に、“産業再建に労働組合の総力結集”、“労働
争議弾圧法 絶対反対”、“資本家のサボを粉砕” などのスローガンを、のぼりやプラカードに
して、約三、○○○名が労働歌を合唱し、市中をデモし 散会した。
佐世保地区は午後一時半、市内の各労組、社会党佐世保支部、共産党佐世保地区委員会
など 約三、○○○名が、佐世保市塩浜町 佐世保勤労署前 広場に集合、社会党 佐世保
支部長らのあいさつの後、全員デモをおこない、佐世保軍政府に行き、メッセージを手交し、
つづいて 佐世保市役所前に集結、一三ヶ条にわたる要求事項を提出して 散会した。


かつて佐世保は 軍港であったがゆえに、いままで一回のメーデーすら おこなわれなかった
ので、このときのメーデーが 最初のメーデーとなったのである。
大村地区は雨天のため、午後六時より、約三、七○○名が 市内、中央館に集合し、同館を
会場として スローガンをかかげ、社会党らが 労働者大衆の団結と、主食配給の増加をよび
かけ、最後に「マッカーサー元帥に対する 感謝 決議文」の提出を決議して 散会した。


その他 北松、西彼 各地区の礦山労働組合などは 各事業所において、それぞれメーデーを
開催した。 西彼 喜々津村においては、同村の林兼造船 喜々津労働組合が、喜々津 農民
組合と共同して、村内のデモ行進を おこなっている。
こうして 解放された労働者階級のメーデーは、この二一年の 第一七回復活メーデーを再
出発点として、次第にその規模も大きくなってゆくのである。
長崎のメーデー
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