銭座防空壕群の保存を求める集い


日 時 2018年11月29日(木)18:30〜20:20
場 所 銭座公民館 (銭座小学校横)


主 催 銭座防空壕群を保存する連絡会

 
長崎地区労 前書記長
「西坂銭座勤労協のひとりとして、銭座防空壕を残す意義について考えたい。 地区労9の日平和学
 習会で結成宣言し、スタンディングもずっと立っておられ170回を超える。 新幹線の橋脚工事で、
 2月に立ち退き解体され、15の防空壕群が出てきた。 実際に避難した証言もあり、長崎市や議会
 にも要請して取り組みをしてきた。 残るは4つだが、残せる物は残すように広げていきたい。」


銭座防空壕群を保存する連絡会 共同代表 (西坂銭座勤労協 会長)
「爆心地から2Kmの地元に住んでいる私たちとしては、見て見ぬ振りはできないと立ち上がりました。 
 外国人捕虜が掘り、避難した3人から得た証言を根拠に長崎市議会にも訴えました。 写真の防空
 壕はすでに破壊され、ありません。 負傷して写真の防空壕に避難し、捕虜の外国人が水を飲ませ
 てもらい、捕虜の医者が看取った証言。 原爆は距離や場所で被害の実相は違います。 残す事で
 理解が深まると考えています。 新幹線のトンネルの真下ではないので、中は埋めて出口付近だけ
 でも工夫すれば残せると思います。 銭座地区は他にも戦争遺構や原爆遺構が残っていましたが、
 跡形も無くなろうとしています。 73年前に何が起きたのか。 街の姿が変わり、今でも風化してい
 るのに、後世に残していく必要があるんじゃないかと、これからも要請行動などしていきたい。」
川口さん (被爆者/付近住民)
「現在89歳、被爆当時16歳。 原爆の当日は学徒動員で川南造船所(現在の三菱香焼工場)にい
 ました。 艦を造る部材もなく、貨物自動車の部品を作り、捕虜と会話する事もありました。
 15時の船で帰り、大波止はやられていたので松ヶ枝で降りて、歩いて自宅へ。 長崎駅前で空襲
 に遭い、地下4ヵ所の防空壕に飛び込み逃れた。 ガスタンクは爆発していて、捕虜たちは山の方
 に歩いていた。 これが夜12時に書いた絵です。 一面真っ赤なのが印象に残った。 山の上から
 スケッチして、焼けたカボチャを食べた。 放射能があるかなと思うが、元気です。 
 

 翌朝、滑石の民家を避難に備え予約しており、目指して歩いた。 ダイハツの所に派出所があり、
 警護団からオニギリを頂いた。 がっくりきたのは、鬼畜米英と書かれたスローガン。 戦意を無くし、
 やる気を無くして看板を見ると、日本の上層部は信用ならんと。 山の上から風景を見て、日本は敗
 けたと戦っていくのは難しいと感じた。 水をくれとあるが浜口から爆心地ではなく、道端に死んだ人
 があるさなか、赤迫を過ぎて空襲に遭い、隠れても死体がゴロゴロあった。 滑石に昼過ぎに辿り着
 いた状況でした。 8月9日〜10日にかけて大波止から滑石まで縦断しました。」
 

部落解放同盟 長崎支部 前支部長
「原爆の時に2歳と10ヵ月でした。 私の母も被爆体験をしており、家族も着のみ着のままで逃げのび
 ていた。 原爆が投下され、すべてゼロになった。 九死に一生を得て、ずっと足の指が動きません
 が、73年間生きてきました。 B29は上空1万mを飛び、アメリカは眼鏡橋に落とせば長崎市を全
 滅できると、たくさんの人を狙った人体実験。 長崎駅から先の浦上は西彼杵郡だった。 長崎の街
 の人は、長崎には落ちていない、浦上に落ちたと指をさされた地域。 浦上は、被爆地域と被差別部
 落の二重の地域となった。 原爆後10年の間に長崎は変わっていった。 私が隠れていた防空壕の
 所に今、住んでいる。 大きな防空壕が4つか5つ山沿いにあり、原爆が落ちた時に、ほとんど崩れた
 状況。 家が立っているからワカラナイが浜平の道路の上の高台には、まだ防空壕はあると思う。」