第110回「9の日」平和学習会 


日 時 2018年4月9日(月)18:00〜19:30
場 所 長崎地区労会館・2F大会議室
テーマ 新幹線建設現場の銭座防空壕群を保存しよう!!
     

主 催 長崎地区労
「9の日」平和学習会 は どなたでも参加できます。 入場無料
長崎地区労 議長
「これまで長崎市交渉や教育委員会交渉で、教員なので教育の観点からも防空壕を残して、さるくの
 コース等にするよう働きかけてきました。 被爆と関係ないと言い方をするが、同じ土地に重層的に
 重なっている。 戦争の時にも使われ、関係はある。 想いをひとつに取り組んでいきたい。」


西坂銭座勤労協 幹事 (全国一般長崎合同労組)
「本日は、この地域の防空壕付近をよく知っている被爆者にも来て頂きました。 被爆して話したくない
 部分もあると思うが、可能な限り話をしてもらいたい。 新幹線工事があり、家屋や店舗を解体して、
 わずか100mの所に連続して残っていた防空壕が出てきた。 保存する会の結成集会を行います。」

西坂銭座勤労協 会長 (中村すみ代 元長崎市議会議員)
「長崎駅の2Fに入るようになる新幹線。 宝町バス停付近にトンネルの出口と高架の工事の為、付近
 の家屋や店舗が立ち退き、解体されて11ヵ所の防空壕が出てきました。 さらに4ヵ所も出てきて、
 防空壕群がキレイに見えています。 鉄道運輸機構に申し入れ調査をしました。 戦後73年経ち、物
 置に使われています。 勤労協として、平和を旗印に保存について声を上げる使命があると、市議会
 へ陳情しました。 市の審査結果は、被爆都市の平和行政なのか考えさせられる内容でした。 
 市が自ら原爆に関連する一連の社会状況を戦災史に記録しているのに、認めようとしない長崎市。
 宝町バス停付近に、ご自宅があった被爆者の柴田さんに、当時の状況を証言して頂きます。」


柴田さん (被爆者/付近住民)
「1945年8月9日、学徒報国隊17歳の夏。 母が作ってくれた綿入り頭巾、スリ切れた運動靴で弁
 当を持って家を出ました。 稲佐橋を渡り工場そばの空き地で朝礼をして、持ち場は三菱本館で庶
 務の仕事をしていました。 警報が解除になり事務所の会計課に行き、空が紫色になり気が付くと
 夕方で、水の浦の防空壕にいました。 誰が私を助けて連れて行ったのか知りません。
 大波止の桟橋につき、早く家に帰ろうと電車の線路に沿って長崎駅の方へ歩くと、電車が何台も止ま
 り焼けていて、人はいません。 五島町まで来ると家が燃えて、暑くて息ができない。 長崎駅が燃え
 るのを見ながら、NHKもドコにあったのかワカラナイくらい燃えていました。 


 私の家は焼けて、近所も燃えてガスタンクもぺっしゃんこになっていました。 私は怖くなり涙が流れ、
 坂道を登り、燃えるのを見て夜を明かしました。 向かいの防空壕に行くと姉の長男がいて、オラン
 ダ人の医者に診てもらいましたが、もう助からないと死にました。 父との防空壕での生活は、地獄
 絵そのもの。 顔や腹が膨れ、お化けみたいな人や、裸同然の人、肉が垂れ下がった人に、ホウキ
 を杖にフラフラ歩く人。 恐ろしい光景を見ながら、防空壕で暮らしました。 日本は戦争に負けたと
 噂が広がり、アメリカ人が上陸して日本人はみんな殺されるとありました。 満員の汽車に乗って、
 森山に疎開しました。 当時の作文、まだ書きたい事もありますが、書ききれません。」
在外被爆者支援連絡会 共同代表
「この被爆体験を残す為にも、防空壕を残す事は大切だと思う。 保存の意味は、この証言で十分だ
 と思う。 近くに、捕虜収容所第14分所があった。(※現在の杉永蒲鉾の裏、幸町工場の一角)
 捕虜はオランダ人153名、イギリス人19名、オーストラリア人24名がいた。 POW研究会に問い
 合わせると、防空壕に関する証言があり、原爆の後に多くの人が山に向かい、防空壕で過ごした。
 捕虜は造船所で働き、防空壕班もいて付近を捕虜たちが掘った。 浅いものが多く、深くても5m、
 食糧の保存にも使われた。 在外被爆者の関係は、オランダは被爆二世が中心となって、まだ生
 存しているが、イギリスは新聞にも載せたが追跡できていない。 今回のいくつかは捕虜が掘った
 に違いない、歴史の事実を解明したい。


 長崎市に申し入れ2時間以上、交渉しましたが歴史を残そうという意識はない。 長崎は斜面地で
 4千くらい防空壕があったと言われる。 無くす理由はいくらでもある、残せる物は残さないといけ
 ない。 本は残っているが、物として残す。 100年たち歴史を語る物、大変重要な問題。 これま
 でも長崎は土地が狭いなどの理由で、結果的に何もない。 広島のように原爆ドームもない。 
 オランダの被爆者が来た時に、探したが判らなかった。 70年前の記憶で、なかなか特定できない。
 市との交渉で絶対に残すべきだと思った。 保存する会を結成し、この運動を強めていきたい。」


平和公園の被爆遺構を保存する会
「平和公園横のエレベータの時も、県や市はわかっていた。 工事の前になぜズラしたりできないか。
 海外では被爆都市だとか言っているが、市の姿勢は腹が立ってしょうがない。
 平和公園横の防空壕は、アメリカはこれを元に核戦争を生き延びるシェルターのモデルになった。


 『銭座防空壕群を保存する連絡会』結成宣言 (一部抜粋)
 防空壕群は被爆当時の社会状況を示す貴重な戦争遺跡、原爆遺跡です。 爆心地から2キロ以内
 にあり、原爆時にも多くの人々が使用した貴重な歴史的防空壕。 73年経過し、被爆者も高齢化
 の中で被爆の体験や痕跡を後世に残し、再び人類が核兵器の参加に遭わないように訴え続けるに
 は被爆地としての責務です。 後世に禍根を残さないため、保存運動を誓い、結成宣言とします。」