在外被爆者支援連絡会 共同代表
「この被爆体験を残す為にも、防空壕を残す事は大切だと思う。 保存の意味は、この証言で十分だ
と思う。 近くに、捕虜収容所第14分所があった。(※現在の杉永蒲鉾の裏、幸町工場の一角)
捕虜はオランダ人153名、イギリス人19名、オーストラリア人24名がいた。
POW研究会に問い
合わせると、防空壕に関する証言があり、原爆の後に多くの人が山に向かい、防空壕で過ごした。
捕虜は造船所で働き、防空壕班もいて付近を捕虜たちが掘った。 浅いものが多く、深くても5m、
食糧の保存にも使われた。 在外被爆者の関係は、オランダは被爆二世が中心となって、まだ生
存しているが、イギリスは新聞にも載せたが追跡できていない。 今回のいくつかは捕虜が掘った
に違いない、歴史の事実を解明したい。
長崎市に申し入れ2時間以上、交渉しましたが歴史を残そうという意識はない。 長崎は斜面地で
4千くらい防空壕があったと言われる。 無くす理由はいくらでもある、残せる物は残さないといけ
ない。 本は残っているが、物として残す。 100年たち歴史を語る物、大変重要な問題。 これま
でも長崎は土地が狭いなどの理由で、結果的に何もない。 広島のように原爆ドームもない。
オランダの被爆者が来た時に、探したが判らなかった。 70年前の記憶で、なかなか特定できない。
市との交渉で絶対に残すべきだと思った。 保存する会を結成し、この運動を強めていきたい。」
平和公園の被爆遺構を保存する会
「平和公園横のエレベータの時も、県や市はわかっていた。 工事の前になぜズラしたりできないか。
海外では被爆都市だとか言っているが、市の姿勢は腹が立ってしょうがない。
平和公園横の防空壕は、アメリカはこれを元に核戦争を生き延びるシェルターのモデルになった。
『銭座防空壕群を保存する連絡会』結成宣言 (一部抜粋)
防空壕群は被爆当時の社会状況を示す貴重な戦争遺跡、原爆遺跡です。 爆心地から2キロ以内
にあり、原爆時にも多くの人々が使用した貴重な歴史的防空壕。 73年経過し、被爆者も高齢化
の中で被爆の体験や痕跡を後世に残し、再び人類が核兵器の参加に遭わないように訴え続けるに
は被爆地としての責務です。 後世に禍根を残さないため、保存運動を誓い、結成宣言とします。」