長崎県労働組合評議会 元事務局長 (長崎県高問連 会長)
「労働戦線統一の中で、総評や県評は潰されたが、地区労は残す事ができてよかった。 むつ闘争は、
37歳で県評(長崎県労働組合評議会)、今の長崎県平和運動センターに在籍して、みなさんと最大の
闘いをしました。 1975年6月19日から1982年8月31日むつが出港するまでの7年間の闘い、出
港後も9の日すわりこみで継続している。 1975年はスト権奪還ストで労働者が燃えた年。 192時
間も新幹線を止めた。 ベトナムでサイゴンが陥落し、アメリカが戦争に負けた年。
原子力船むつは1969年に石川島播磨重工東京工場で進水した。 故障すれば東京で修理すべき、
ところが政府は西の果て対馬を選んだが、母港化反対した。 当時の佐世保市長が原子力推進で修
理受け入れになった。 県評に地区労、社会党で共闘会議の佐世保現地闘争本部を作り始まった。
むつ母港化阻止の集会に、5千人集まり気勢を上げた。 この闘争を全国化し、1976年の原水禁大
会は佐世保で開いた。 1977年は佐世保市議会での、議会傍聴動員をやり議会は荒れました。
選挙は任意カンパだが、むつ闘争では千円の義務カンパをお願いし、見事に全組合が登録員数分を
出してくれた。 1978年佐世保入港時には、九州各県の県評にお願いし動員。 海上でも3時間に
及ぶ抵抗を行った。 船外機付きボート30隻、手コギボート20隻がむつに向かって行く。 マスコミ
からは木の葉船団(こっぱせんだん)と呼ばれた。 議員や弁護士にも乗船してもらい、むつを2回止
めた。 ダグボートで横波を作られ、3隻が転覆した海上部隊。 日本で初めての海上阻止闘争。
私は陸上部隊にいた。 各県からの動員も駅前でデモに入り、ジグザグデモで蛇行した。 交差点で
路上に座り込み、デモ隊は佐世保市役所前で道路を封鎖し、満腔の怒りを込めて市長に抗議文を渡
した。 警察権力の過剰警備と挑発が辛辣で、警察が謝ったのは初めてでした。 普通はコレで終わ
りだが、もう一度修理するSSKに向かってデモ行進を行った。 むつ廃船まで闘うと確認した。
大衆に学び、大衆とともに闘おうと総括の後、毎月16日を反むつの日として闘った。
1979年3月9日から私が提唱し、核廃絶で反核9の日を実践した。 始めは30数人の参加者が今
は100人。 土日は高校生1万人署名も来て前でしゃべる。 1982年むつが出て行った後も、むつ
の日から39年間継承している。 来年3月には40周年の
9の日すわりこみ、500回でギネスブック
に登録申請したい。 核と人類は共存できない、福島の原発事故後は原発の平和利用を認めていた
人もダメだと言いだした。 ずっと実践してしたのは我々。 なかんずく、地区労のみなさん。
1952年4月15日に佐世保地区労の動きで、佐世保南高校で長崎県労働組合評議会は結成された。
連合ができて来年で30年。 長崎の連合は1990年5月24日にできた。 闘争し汗を流さないと、
選挙もうまくいかない。 集会やデモも減り、取り組みも減っていて反応もニブイ。 労働運動の停滞
があっても、闘う方針があれば労働者は闘う。 平和も闘い取るモノ、闘わなければ憲法9条の改憲
阻止はできない。 選挙に出るからには、憲法9条をしゃべれない人は選挙に出てはイカン。 今だに
言えない憲法を答えられない候補者がいる。 地区労の反戦闘争の伝統を守り、語り継ぐ事が大事。
若い人に闘いを通じて、今できる運動を考えてもらい、誇りある運動を受け継いでもらいたい。」