この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



彼らは毎朝 点呼をとった、脱落者が出ていないか、確認をするとともに、毎朝 お互いの志気
を励ますため 労働歌を たからかに唄って鼓舞しあった。 
朝会では必づ情勢の報告をした、いろいろの注意事項を説明をし その日のそれぞれの部署
を指示した。
ピケ隊・説得班・警備・賄い・宣伝隊、いろいろの隊が編成された。


そのなかに ひときは目立ったのが、女工たちの結束であった。
彼女らは赤い襷をかけ、男工の中にまじって行商隊にくわわった。
浜町、鍛冶屋町の辻々にたつ、いとけない彼女たちの姿は、長崎の人々の同情をかった。
石鹸・チリ紙・歯磨粉・ハンカチなどは 飛ぶように よく売れた。
なかには 五○銭・一円と カンパしてくれる市民もいた。


これにひきかえ ピケ隊・警備隊の苦労は 並大抵のことではなかった。
朝早くから夜は零時・一時まで、印刷所の辻々にたち、裏切りものがでないか監視に
あたった。
会社の職制をしての切崩工作も、これにまして ひどく悪らつに なっていったからである。
正月を目前にしたおりでもあり、会社としても切崩しと、印刷工 獲得に躍起になった。


この切崩しの甘言と、生活の不安におびえた一部 組合員の脱落者が、秘かに工場に入場
しようとはしては、ピケ隊につかまり 説得されて、つれもどされたり、会社とのあいだに小ゼリ
合いがおこった。
県の特高課も こうした不穏な空気に心配し、斡旋につとめたが どうにもできなかった。
あるとき ピケ隊にむかって、暴言をはいたことにより、居合わせた技工組合の主事が、憤がい
して社長をなぐり 暴力行為で長崎署に逮捕されるという事件もおきた。


こうしたピケ隊・警備隊との小ゼリ合いの結果、そのたび逮捕者もだす というところまで双方
殺気だっていった。
昭和七年 一二月は長崎は例年にない大雪が降った。
夜中のピケ隊の苦労は一層ひどくなった。
印刷所近くの 街の辻々に立つ人たちは、降りしきる大雪の中 警戒にあたった。
これらのピケ隊に 女工たちは熱いお茶をくばって廻り 励ました。
それが なによりの慰問であった。


一二月にはいると街では そろそろ威勢のよい“餅搗き”の キネの音がきこえはじめた。
子供を持つ親たちの気持ちは 誰しもおなじであった。
日常不自由な食糧に、幹部はそっと たべないで、食糧の喰いつなぎに あたっていた。
今年は“餅搗”はできないと決意していても、家庭のことをおもえば不安があった。
こうしたことは よくある家庭争議までおこしていた。
副団長は、このおり妻とも離婚する といったことまでおこった。
離婚まではいかぬとも、郷里にかえっていった妻などもでていた。


争議団はこれでも お互いに励ましあってたえていた。
貴重な金を出しあって、餅屋より ついた餅を買いもとめ、子供のいる家庭には くばって、少し
でも子供たちに 親たちの気持を わかち与えて 安心させたりした。
金がなくても いろいろのことを考え、なせば出来ると お互いは励ましていった。
浜町・鍛冶屋町の繁華街の辻々には、争議団の この悲壮な実情を訴えるため、雨戸に
フスマ紙を貼りそれに黒痕鮮かにかかれた支援要請の文章が、大きく壁新聞として立て
めぐらされ、宣伝戦が くりひろげられた。


こうした印刷ゼネストは、人のよい長崎市民の同情を、ますます ひきたてていった。
彼らの行商隊や、宣伝隊には日をつのり、激励の声や手が多くさしのべられた。
他県では実施していない“労働手帳”の強制には、市民も怒り同情をよせてきた。
彼らの争議は暴力を否定し、宣伝戦に力点をおき、大衆にひろく 訴えていったことが、市民
にも理解されたものであり、反面 当時の印刷工の労働条件が、あまりにも苛酷であったこと
に たいする、市民大衆の同情となり、怒りとなつて抗議の眼がむけられて いつたのである。


当時 あつめられた資金カンパは 八○○円を越えている。
当時の八○○円といえば、家が二軒 買えたほどの多額の金でもあった。
この争議で めざましい働きをみせたのは女工の結束であった。
また 家庭の主婦たちの夫らを ささえてくれた陰の力もあって、争議は統制のある指示のもと
に続けられていった。


この争議団以外にも固い結束に、組合弾圧を あきらめざるを えないようになった。
争議は争議団長とのあいだに 妥結覚書が かわされた。
“印刷ゼネスト”の原因となった労働手帳は、実質的には この争議の結果、実施されないで
しまった。
一一月一七日 争議いらい二七日の長期にわたって たたかわれてきた、この印刷ゼネストは、
労働者の勝利におわったが、このおりの苦労は当時の争議で もっともひどかった。


それだけに 闘いぬいてきた争議団は 一同だきあって泣いた。
しかし検束者 四六名をだし、団長以下 幹部は団員の罪を一手にせおって、三名が禁固
二ヶ月の刑に、それに応援の機械工 組合員が禁固一ヶ月の罪で それぞれ浦上警察署に
おくられる といった犠牲者もあった。
この争議の結果は、犠牲もおおきく、争議解決資金など僅少であったが、その反面争議が
もたらした印刷工の団結には大きく影響した。


団体協約権を獲得したもの、組合員の加入 八五名、その他 組合員の待遇改善と、社会的に
支援など、大きな教訓を かちえたものであった。
そのご 印刷技工組合の名は 名実ともに たかくなっていったのである。
印刷技工組合結成 と印刷ゼネスト 後編