この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



印刷技工組合結成と“印刷ゼネスト”


大正一五年(1926年)長崎市において、印刷工の争議がおこり、この争議は昭和七年(19
32年)の長崎市における印刷技工の、大ゼネストに発展してゆく素因となってゆくのである。
では当時の印刷工は どのような労働条件におかれていたか、記述することにする。
たまたま大正一五年一月には 東京では、“太陽のない街”で有名な共同印刷の、五八日に
およぶ争議がおこっていた年でもあった。


印刷工は当時 日給が普通職人で六○銭、優秀な熟練工で八○銭位であった。
朝八時から午後六時までの一○時間労働で、昼休みが三○分であった。
夕方の六時といっても、仕事の都合では残業を強いられた。 なかには徹夜のときもあった、
しかし 賃金は時間賃金で、残業手当の割増はなかった。
ただ 夜遅くまでなると 会社が夜食がわりに“うどん”一杯をだしていた。
盆正月の賞与もまったくなく、そのうえ印刷所によっては賃金不払があっていた。


こうしたことから、かねて印刷工のなかには、組合をつくろうとの うごきがあった。
四・五名は或る日ひそかに、「労働問題研究所」をたずね、組合づくりを相談した。
そのうちの一人は、会社に計画がもれないよう、印刷労働組合設立を決意し、つぎのような
主旨を、秘かに仲間に といてまわった。


『…諸君!今日 資本家のやっている事業は、営利一方にて 彼等は利欲のまえには、なんら
情実を認めず、冷然たる態度で 労働者を圧倒していることは、十目の一指せるところである。
…われわれ労働者は牛や馬ではない。 又資本家の従卒的 奴隷ではない。
まさしく一個の人間であり。 日本国民である。
…人類愛を無視した現代社会から 一歩でも きりぬけようと労働者は、団結し 一団となって
資本家にあたるほか道はない。


…虎穴に入らずば虎児をえず、対岸の火事ぐらいにおもっていて なにができるか、真に犠牲
の精神にもえあがる底力のこもった人間となれ。
臆病者は資本家の鼻毛をうかがうのみ 汲々しているだろう。
…われわれは国体の基本たる 憲法第二九条によって 完結せんとするものである…』
との 熱烈な訴えを したためた趣意書を、七月三一日付で廻付し 署名をもとめた。


誓約書には 同志一九人の連判状がしたためられた。 結成にあたって彼は“労働組合”との
言葉をつかわず一人でも多く加入しやすい組合名を考慮して、“印刷技工組合”とした。
こうして 長崎の印刷工はじめての組合が結成されたのである。
                          要求書
今搬 吾等 従業員一同 待遇改善に対して 左記の条項の 承認実行を 要求申候 他
要求条項


一、月二回の定休日出勤の際は 日給一日半分 支給の事
一、臨時休業の際は 日当六割 支給の事
一、中元年末賞与として 日給十日分以上 給与の事
一、日給増額の件
一、夜業手当増額の件
一、休憩時間の従業は 絶対に撤廃の事


争議にはいると争議団は、市中の印刷工に『諸君の誠心に訴う』の檄文を ガリ刷りして配った。
この効果はあった、組合はつくられていなかったが、他印刷所にも この火は ひろがろうとす
る気配があった。
この争議いらい、印刷工の待遇改善のうごきは すすんでいたが、昭和初期のわが国の不況
は、この印刷業界にも容赦なくおしよせた。


賃金不払、労働時間延長、無条件首切りが続くのも このころである。
昭和六年(1931年)従業員が二分間遅刻したことを理由に、首になろうとしたことがおこった。
日常において あまりにも苛酷な労働条件に このことが、発端となり あわや争議になろうとし
たが これはおさまった。


おなじ年の七月、事業不振を理由に、賃金を一割五分減らし、なお九名を解雇、なお解雇範
囲をひろめようとしたため 従業員はただちに争議にはいることになり、長崎労働組合、印刷
技工組合、ならびに社会民衆党長崎支部に支援を求めた。
要求書を提出した。 しかし、会社は全部拒否してきたので、争議団はピケを貼り対抗した。
当時の市内では もっとも大きな印刷所であり、こうした印刷所でも賃金不払いや、遅延がお
こっていた。 ピケ隊は スト破りを説得したり 奪還した。


それでも工場内にはいっていたものもいたので、行動隊の一員であったが夜中に工場に
しのびこみ 新聞を刷る大きな印刷機に、砂袋をなげこみ電源のスイッチを入れて印刷が でき
ないようにさせるなどの戦術にでた。
こうした結果 さしもの支配人も ついにおれ、争議は全面的に 争議団の勝利となった。
この争議は 印刷技工組合の結束を ますますかためていった。


賃金不払、遅延、それに労働時間の延長など、不況のなかにあえぐ労働者たちは、背にかえ
られず、自主防衛のためにも たちあがざるを えなかったのである。
しかし、一方 印刷同業組合のほうにとってみれば、この技工組合の存在は、めのうえのコブ
であった。 
こうした両者の決定的な対立があきらかとなってあらわれた。


昭和七年(1932年)六月、長崎印刷技工組合長は、印刷同業組合長をおとづれ、市内印刷
所の一部で 給料が遅払いになっているのを指適し、さらに技工組合の決議分を提出した。
その決議文には、「一、工場法を守ること、 二、臨時休業のときは六割 賃金を支給すること、
三、賃金値下、時間延長、解雇 絶対反対、 四、従業員の いつさいの問題は 本組合と合議
制にすること」などであった。


ところが この交渉がまとまらないうち、これに対抗して出されてきたのが、“労働手帳制”の
問題であった。
日ごろから 印刷工の結束をきらっていた同業組合を代表し、この“技工手薄”という労働手帳
を一○月一日より実施すると発表してきた。


この“労働手帳”制 の撤回を求めるとともに 抗議文を提出した。
ここにいたって印刷技工組合と 印刷同業組合とは 真向から激突し、大争議へと発展してゆく
のである。これが有名な“長崎の印刷ゼネストであった。
この争議の原因は わかるように“技工手薄”という労働手帳を 強制的に配布実施して、印刷
技工をしめつけ、しめだす弾圧手段であったところから、これに反対する長崎の全印刷工の
同盟罷工であった。


当時配布された “檄” 文には 印刷工たちの怒りが うかがわれる。
檄!!(労働手帳の強制配布 絶対反対)
親愛なる全印刷工組合員 諸君の奮起を促す。
◎既に本組合が 予告せる 暴虐極りなき、労働手帳は無修正のま々 近く配布されんとす。


◎手帳を受理せんか、野良犬の如く、強く鉄鎖に ノド首を絞られ、従前より更に痛撃を加へ
  られる のみならず、事業主のご都合次第で、いつなんときでも餓死の巷へ、追込まれる
 ことは火を見るよりも 明らかな事実だ。


◎本組合が 公会堂で催せし、事業主の総会に乗こんで 鋭い抗議をなし 反省を促したことは
 熟知せるところにして、かくの如き 従業員の奮起に驚いた、連中は又もや、いつもの老獪な
  手段で 猫撫声の愛嬌を振りまき、正直な諸君を 寄せ集め ゴマカシ説教を やったあげく時
  間延長のみは 絶対にしないと言っただろう―。
  嘘八百ならべる彼等が 永久に時間延長しないと信じられるか、労働手帳の明文はどうだ。


◎諸君!!眼を大にして 手帳の内容を充分、検討するがよい そこには幾多、従業員泣かせ
  の条文を発見する。
◎今日まで再三、賃銀引下げ、賃銀支払延滞の横暴に憤激しながら、こらへて来た筈だ。
◎まだ黙って 泣寝入せねばならないのか?親!妻子!弟妹…否 人間として生きる以上、
  我慢が出来るものか、己達は、そんな意気地なしでは ないのだぞ!! 


◎諸君の生きる唯一の方法は、即ち 団結の威力によって、花々しく最後の決戦を敢行する
  よりほかに道はないのだ!!事業主のおどかし文句である 首切りに屁古たれるな!!
 そんなことなら 組合幹部は真先き、やられる筈ぢやないか!!
◎見よ!!穀然として戦勝の栄誉を誇る、諸君の印刷技工組合の旗は正義の愛の鉾先を
  輝かしながら、諸君の馳せ参ずることを待っておるのだ!!
 兄弟達よ、躊躇する時ではない行こうぜ。


彼等 事業主の陋劣なる奸策をあばき、労働手帳 撤回のため 粉砕の鉄槌をくらわせろ!!
戦え!!決断力は 男子の本懐とするところだ!!
文化の先駆者 印刷技工の名を辱めるな!!
立て!!奮へ!!戦闘準備を整へろ!!
                                            長崎印刷技工組合


こうして この“印刷争議”は昭和七年(1932年)一一月一七日 つぎつぎとゼネストに発展
していった。
当時 長崎市内には一六工場があった。
このときゼネストに突入したのは一五工場、一九二名であった。


技工組合は その闘争本部を 市内の天本青年会館にて がんばった。 
争議資金とてないまま、ニ○○名にのぼる争議団員の、賄いからして ゆかねばならない
団員の苦労は 筆舌につくしがたいものが あったという。
長崎印刷技工組合 結成と印刷ゼネスト 前編