この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



長崎電鉄争議


大正一五年(1926年)七月九日 長崎電鉄 従業員のストライキがおこっている。
そのころの長崎電鉄は、長崎市民の唯一の交通機関でもあった。
出来大工町 本社の事務職員の他、運転手、車掌、線路工夫、変電所員、整備工といった
職種にわかれており、このときストライキに入ったのは、このうちの乗務員関係である。
運転手と車掌のみであり、その他は参加していない。


そもそも争議の発端となったのは、待遇改善であった。
電鉄の従業員のなかに監督という職種があった。
この監督が とくに乗務員の采配をおこなっていたが、これが なかなかの横暴で ちょっとした
ことでも暴力行為をふるったり、勤務も交代制要員の不足や、時間からして 大へん過酷なも
のであった。


ツリ銭を違えると 盗人のように身体検査までするという、まさに人権じゆうりん的なことも
平気でおこなわれていた。
こうした会社の仕打ちに 日ごろ不満をもってはいたが、組合もなく泣き寝入りの状況であった。
今村等らの「労働問題研究所」とも連絡をとっていた。
こうして 極秘裏に闘争の打ち合わせを すすめていた彼らは、会社の苛酷な労働条件の改善
と、賃金の引上、を要求して 争議に入ることにした。


当時は会社の切崩工作も活発だったので これにまず対抗する必要から、闘争本部を「労働
問題研究所」の近所を借りて設置した。
争議に はいつたおりは、乗務員の結束は比較的にかたかったが、全車輛がいっしょに突入
するということは到底できなかった。
争議に入り 電車は間引き運転のかたちになった。


「労働問題研究所」の指導部からは、今村等、伊藤卯四郎らが連日のように 激励応援にか
けつけた。 このため 当初は不安がっていた乗務員も、この人たちの熱心な応援演説に、
いっとはなしに闘争心をかきたてられ 争議に参加していった。
電車も とうとう半数ぐらいは停ってしまった。
七月一一日 夜には会社糾弾演説会をひらいた。
弁士として、電鉄従業員らが、応援弁士として、今村等、伊藤卯四郎らが名をつらねている。
この演説会は大々的におこなわれ、聴衆も多数これにあつまった。


交渉委員として 三人があたることになった。
長崎電鉄はじまっていらいの この争議は、会社もなかなかすぐには要求に応じようとはしなか
った。 争議にはいった乗務員は、日頃の監督連中にたいする うっ憤をこのときとばかり、 
なじり攻撃した。
こうして 監督と乗務員の対立が激化していた。


会社は争議の切崩しにやっきになった。 いろいろのデマも飛んでいた。
争議が長びき、解決つかねば変電所が爆破されると、まことしやかなこと まで流れ、人々の
不安をかりたてた。
これには当時 ほんとうと思わせるようなことがあっていた。
同じ年の別子銅山争議のおり、発電所の水路破壊の決行隊長が応援にいたからであった。


こうしたころの或る日、交渉委員の一人が、馬町の終点で非番中、椅子にかけていたとき、
監督の一人が近づき、ちょっとしたことから口論をしかけ、そのあげくツバをはきかけた。
これに怒り 相手にツバを負けじと はきかけ、これが原因で二人はつかみあいになった。
そうこうしているうち、誰かが闘争本部に電話したので、交渉委員が暴行をうけているという
ことで、多勢の応援隊が電車で急行してきた。


そして馬町に電車が着くなり、真先に飛び降り 監督をひっつかまえて、二つ三つぶんなぐった。
この事件を会社は利用し、暴力行為で訴えた。
また この事件ののち、争議団長が、神経衰弱のあまり、馬町の終点のところで、自分が運転
していた電車を とめるのを忘れ、前の電車にブツつけて大破させるという事故もあいついで、
争議にあせりが出てきた。


こうした結果、会社も争議団の要求について若干は容れたが、これに引きかえ争議団の犠牲
は大きかった。
当時の記録には「…同争議は失敗に終わったが…」となっているのもある。
このときの第一次電鉄争議は、大正一五年七月九日より 約一週間にわたり継続しておこな
われた。 争議団長も事故の責任をとって会社を辞職した。


しかし この争議を契機として、運転手、車掌ら乗務員の結束は すこしづつたかまっていった。
やがて 昭和の代ともなり、賃金値上げ、監督の解雇要求などの闘争にたちあがっている。
こうしたなかから長崎電鉄労働組合が結成されてきたのである。
長崎電鉄 争議