この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



「労働問題研究所」の開設


大正一二年(1923年)一一月、さきの香焼炭礦事件で、未決を通算して、三年の刑をおえた
今村等が 監獄から放免になって出てきてから、一週間ばかりした ある日、一人の青年が
今村のところを尋ねてきた。
青年は、この二、三年の間の日本のことについて、いろいろと変わった話などして聞かせた。
今村が入獄した翌年の大正一○年(1921年)一一月には、原 敬首相が暗殺され、翌年には
日本共産党創立となり、「無産階級運動の方向転換」の論文を発表、出獄の年には、第一次
日本共産党検挙、甘粕事件などが起こっていたころだった。


また 青年はよくマルクスやエンゲルスのことなども話した。
今村は三年間の獄中生活で、世の中のことがよくわからなかった。
そして この青年とよく語った。 青年は今村にまなんで、労働運動をやりたいといった。
この青年こそが伊藤卯四郎その人であった。
今村はこの伊藤に、本当に運動をしようとするならサラリーマンではできない。 すぐクビになる。
運動に専念するなら 会社を辞めよと言った。


伊藤は今村にこう言われて 一度は帰っていったが、又 訪ねてきて、会社を辞めてやりたいと
いった。 今村は それではと おなじ岩川町の、自分の家の近くに 家を借りてやった。
今村等が 長崎市岩川町に『労働問題研究所』の看板をかかげたのは こうしたときであった。
伊藤卯四郎は 今村にいわれたように、岩川町の借家にはいり、彼の妻が小店をひらき駄菓子
などを売って生活をみることにし、伊東は今村とともに研究所の運動に専念することになった。 


この研究所には いろいろの人が出入りするようになった。
警察でも今村が問題の人間だけに、神経をとがらせていた。
それまでの取締りは高等課だったが、特高警察が出来て それが担当することになった。
今村らは この『労働問題研究所』開設を、大いに天下に知らせようと、I・L・O大会に参加した
日本代表団の一人を長崎の地によんで、その報告演説会ということで、大衆に訴えようと
ばかり、駅前にあった宮古座という芝居小屋を借りて、開催することになった。


ポスターの印刷など、できるときではなく、紙を買ってきて徹夜で書いた。 当時長崎市内に
六○○枚貼れば ことたりると見て、一同は白い紙に墨で書いて、赤で○をつけたりして人眼を
ひくようにした。 バケツに糊を入れて市中に貼りめぐらした。
ところが そこに問題が起こったのである。


その当時 長崎には劇場は、南座・栄之喜座が宮崎という親分のナワ張り、永久座・宮古座が
藤田という親分のナワ張り、とがあり、そして劇場に なにごとか起ると、このめんどうを その
親分衆が、おさめてくれる といった仕組みになっており、興行主は そこの親分衆に芝居などの
木戸銭を 一○何人分 毎日もってゆく しきたりになっていた。
ここには余り警察などもタッチしないようになっていた。
こうした宮古座を、いかに興業主の方で貸したとて、藤田親分に何の相談もなく借りたという
ことで問題となった。


まづ藤田が興業主に圧迫をかけた。 子分たちが おしかけて辞めさせねば殺すといきまいた。
これに驚いて興業主が、今村のところに辞めてくれるよう頼みにきた、しかし 一方の今村は
今村で、すでに市中にはポスターも貼りめぐらしており、東京の方から 予定どおり長崎にくる
ようになっている、意地でも辞めないと言った。
興業主は それでは自分は殺されるので、どこかへ逃げでもせねばならないと嘆いた。
今村は この興業主には、死なんでもよいオレにまかせろと言った。 そこへ藤田の子分たちが
今村に浦上駅前の“ヤマキ屋”という飲食店にきてもらいたいと使いにきた。


いってみると 親分藤田をはじめ兄貴分が、ズラリ並んでいる。
演説会を辞めてくれと ここでも言った。 今村は辞めんと 堂々と答えた。
どういう理由で演説会を辞めねばならないのか、いやしくも日本の労働者の代表として、各国
の労働者の代表会議に参加したものの話を、なぜ長崎の労働者に聞かせないのか、その
ような報告を聞いて われわれも理解しなければならん。 とつっぱねた。
藤田は困った顔で、われわれに反対してまで やる必要はないではないかと理由もなく言った。


今村は反対までされてやる必要はないと言っても、日本全国、いや世界的なものをやるのに、
それでは何故おまえらは反対するのか、そちらにも顔があるというなら、こちらも顔がある
お互いさまだ。 と堂々たる問答ぶりであったという。
藤田も相手が 香焼炭礦事件の主でもあり、今村の眼光におされて、うかつに手を出すことは
出来ないでいた。
結局、藤田は今村に 何もそのような運動をやらなくとも、事業か商売かやるなら、資金その
他 全部めんどうみてもよいと話をかえてきた。


このようなことはお前らに話てもわからない、今こそ世間から悪党視され、警察から追われて
いるように 人はバカにしようが、君たちが きっとオレの前に跪いてくるときがくるぞと言い、
「今村等は体を売っても、精神は売らんぞ」と言い残して さっさとヤマキ屋をでてしまった。
こうした今村の姿に 大勢の暴力団も 手も足も出すことができなかった。
事務所にかえり 伊藤らを集めてこの話をし、断固として演説会は開催せねばならないと、
相談しているところへ また大勢がおしかけてきた。
今村は 伊藤に適当にあしらっておけと言い残して 裏から二階に上がってしまった。


それから翌朝、代表格の幹部が五・六人きて、今村に藤田のところまできて挨拶をしてくれと
言ってきた。 なんで藤田のところに挨拶しに行かねばならないのかと突っぱねたら、いや
今日は酒肴をととのえて、一杯さしあげたいのだと言う。
それなら礼儀を正してモノを言え、それに藤田みずからがこないで、お前たちに使いさせ、
来てくれとは何事だ、帰ってそう藤田に伝えろ、と使いの幹部連中を追い返してしまった。


又きて 実は他意あってのことではないが、昨夜のことで言葉が過ぎたから、仲直りに一杯
やろうではないか、という心安い気持ちで飲みたいから来てくれと 再三のように頭を下げて
きたので、それではと 大いばりで藤田のところにいった。
藤田は昨夜はすまなかった、今後ともよろしく頼む と頭を下げて今村に詫びた。
そうしたことがあって、とうとうこの演説会は今村も中止することにした。


しかし、市中に貼りめぐらした六○○枚のポスターは、長崎の労働者にとって、また
『労働問題研究所』の宣伝にとっては大いに効果があった。
そのご 最初にこの研究所に相談をもちこまれたのが 大正一五年(1926年)七月の
長崎電鉄争議であった。