この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。
三菱長崎造船所の争議
明治一七年(1884年)明治政府は 岩崎弥太郎の三菱社に貸渡して 経営を委託したが、
同二○年(1887年)七月 土地、建物、施設いっさいを 四十五万九千円で三菱社に払下げた
もので当時、職工は七六六名に すぎなかったとされている。
その後 設備の拡大とともに 従業員も増加していった。
争議で著名なものは、明治四○年(1907年)ニ月一六日より おこった争議である。
この争議は ニ月の足尾銅山暴動、おなじく六月におこった 別子銅山住友鉱業所の騒擾と
ともに、明治四○年三大争議といわれている。
また この三菱長崎造船所のストライキは、足尾、別子銅山などの争議とちがって、きわめて
整然として たたかわれたところに特色があった。
会社は対岸の飽の浦、立神への通勤者のため提供していた三○○人のり 団平船一五隻が
不足でもあり、また危険だとの理由で 同年ニ月一五日で廃止するむねを告示した。
通勤者はこれが廃止されると 遠く稲佐橋をわたって陸路通勤しなければならないので、
よりより集まって 話合った結果、会社にたいして この通勤船を残すよう嘆願したが、会社が
これを拒絶したため、不平がしだいにたかまり、通勤者の三分の一ちかくが欠勤した。
こうした事態の不穏化がつのってきたため、これを心配した県が 間にはいって斡旋し、
一四日になって この廃止問題は当分延期することとなって解決した。
ところが この通勤線問題と前後してかねてから賃金引き上げと、労働時間短縮の二項目
要求がだされていた。
これは同所の立神工場 木工の五○○余人だった。 彼らはニ月のはじめから、
一、一日一○時間の労働時間を九時間に改めること。
ニ、賃金をニ割がた増額すること。
会社に要求し、交渉中であった。この労働時間一○時間は、八年前に九時間制を延長して
賃金を値上げしていたものであったが、そのおりの条件として、工員の要求または会社の
都合よって、労働時間を もとにかえす場合は、増額した分だけを、引下げるということになって
いたが、現在は八年前とちがって物価はあがり、また よそと比較しても賃金値上げはとうぜん
なされてもよい という主張であった。
これには職員、技師のあいだにも、会社にたいする批判があって早晩問題として とりあげね
ばならないところにきていた。
立神工場の木工は二月一五日の夕、職場にあつまって協議し、これを請願書にしたため、
美濃紙二十九枚におよぶ連判状をつくった。
再三 差し出された請願書を受け付けないばかりか、委員をおどして追い返した。
委員はひとまず職場にひきあげ、主だった職工約一三○人が、夜のふけるのをまって、相談
のため西泊山に会合した。 ところが この会合を警察が探知して、ただちに解散を命ぜられた。
しかし、彼らは元砲台跡のあった立神山に集合して「職場大会」のようなかたちになった。
一方、長崎の各警察署は、夜の明けるのをまって署員に非常招集をかけ、制服巡査一三○
人と角袖(私服刑事)たちで、工場内はもちろん、市内の要所を警戒にあたらせた。
会社は警察を警戒にあたらせる一方、立神山にあつまっている職工を集め、立神工場長
から「職工の不平があるたびに賃金を増額していたら習慣となる。 今後一○日、二○日
仕事をやすもうが、会社は絶対に請願はうけいれない・・・・・・」と警告した。
つづいて署長がたって、「もし万一 暴動をおこすようなことがあれば、容赦なくこれを逮捕
する・・・・」と言った。
このことばが おわるやいなや職工は一時に活気づいて どよめきはじめた。
職工はふたたび立神山にひきあげた。
そこにまた工場長と署長がやってきた。 かれらは職工を説得したのち、職工側委員の主張を
きき四、五日中に回答すると約束してたちさった。
五○○余人の職工は、ただちに五日間のストライキにはいることを決議した。
一、今回の増給問題にして もし容れられずんば、木工部はこぞって辞表を提出し、三菱に
積金せる元利金は、すべて平等に分配する。
二、平和の手段が存するかぎり、腕力に訴え粗暴の行為に出でざるべし。
三、裏切りをして、出勤、または内幕を会社側に密告したるものは、即時二十円の罰金に
付し、厳酷なる肉体上の制裁をくわう
と盟約し、「一同餓死するまでは、断じて要求をひるがえさず」と、各自の指をきって血判
をおした。 また、万一の犠牲者がでたときは、家族の生活を扶助する、ときめた。
三菱長崎造船立神工場 木工部の五○○人の職工は、こうして整然とストライキにはいった。
翌日は日曜日だったが、工場長は出勤して、組長一四人、小頭三人を招集して、
「今回の増給の請願は無理もないことだが、八、○○○ないし九、○○○有余人の職工を
使役する三菱造船ともあろうものが、職工の請求によって増給したということがあっては、
いかにも職工をおそれたようで、会社としては威信にかかわるから、気の毒ではあるがこの
請願はどうしても ききいれることはできない。」と言いきり、これを職工らに伝えるように命じた。
「会社の威信よばわりして容れにくいとは、何という暴言だ。 われわれ労働者をふみつけに
するにもほどがある。」と言いきり、これを職工らに伝えるように命じた。
これを聞いた職工はおこった。 かれらは いきりたった。
いまにも暴力におよびそうな形勢だったが、小頭はじめ職工委員や、当日出勤していた組長
らの尉撫でことなきをえた。
しかし、職工の決意はますます固くなった。 そればかりでなく、木工部のストライキを固唾を
のんで見守っていた、全工場の木型工、鉄工のあいだにも、イザというときには旗揚げして
応援しようという気運がおこった。
こうしたとき、三菱本社から社員が派遣されて、長崎についた。
のちに三菱造船会社の社長になった人である。
「今回の職工の請願は断じて応じられぬ 三菱造船所は、たんなる営利事業ではない。
三菱がすすんでこの薄利な事業に従事しているのは、国家にとってこの事業が重要である
ためだ。・・・・労働者は辞職なりとも、ストライキなりとも勝手にやるがいい、不穏の要求者は
どんどん解雇し、さらに今日までの賃金から貯金した積立金をすべて没収する。」と言った。
本社代表のこのような態度は、五○○人の木工ばかりでなく、八、○○○人の全工場
の職工は、立神工場の木工とおなじく賃金の二割増額の要求書を会社に出した。
かれらは、作業に従事したまま一週間以内に解決を要求し、もし容れられなければ、一週間
のストライキを断行し、それでもし「三菱が反省せずは、ふたたび三菱造船所の土をふまず」
と誓約をとりかわし、同志の連判状をつくりはじめた。
会社は解雇でもって職工をおどしつけたが、裏ではおもだった職工に特別増給してやると
ほのめかして分裂をはかった。
しかし、噂をきいた職工は、「少しばかりの増給にかえられぬ、一致団結の運動に見苦しい
汚点をつけてはいけない。」といっそう結束をかため、気勢をあげた。
会社は、とりしずめにやっきになった。
闘争は四日目にはいり、二月一九日になった。
この日まで立神工場 木工部には、参加していない職工が二四七人ほどいた。
だが、この日まで就業していた職工らも、ストライキの見物にいくといって一人去り、二人でか
けて、やがて午後までには、警戒の巡査のほかは職場はからっぽになってしまった。
この日、立神山で集会をやろうとした職工は、警官に一も二もなく追い散らされたため、五人、
一○人が一隊になって、長崎市中にくり出した。かれらは行くところもなく、飲食店にはいり
こんで気炎をあげたので、市内はなんとなく険悪な空気につつまれた。
この夜、憲兵の一隊が街にくり出して厳重に警戒し、人心はきょうきょうとして、流言蜚語が
とんだ。おりから「ドックで目下建造中の東洋汽船会社の汽船を、職工や土方姿に変装した
角袖(私服刑事)数一○人を工場内にいれて警戒したが なにごともなく夜が明けた。
二○日になった。 職工側の気勢は、一歩も引かない意気ごみであったが、さらに全工場が
これに合流する気配が強くなってきた。
こうしてこの日、会社の態度は急変した。 ニ月二○日、闘争五日目にして会社は、木工部
全部の委員を招き、技師がこれと会見しこんこんと説得しおおいに尉論につとめた。
会社は職工側がさきに出したニケ条の要求 「一日九時間労働制」、「賃金のニ割がた増額」
については実行するとまえおきし、当面の妥協案として、一律増額することは不可能である
ので、さしあたり各工場を通じてニ八○名の給与増額、他は漸次おこなうということで話合い、
職工側も協議のうえ この案をのむこととなり、ストライキは急転直下、労働者側の要求が
一部貫徹のかたちで解決し、翌二月二二日より全員平常にもどり通勤することになった。
また この争議について、一部労働運動史などに職工側の全面要求貫徹と唄っているものも
あるようだが、これはやはり誤りで一部貫徹とされるのが正しいようである。
しかし、足尾や別子銅山の坑夫のように暴動化して、ついに軍隊の出勤を招き、首謀者が
裁判にかけられたりして、労働者が敗北したのにくらべると、この三菱長崎造船所のストライ
キはまことに当時整然とした闘争だったといえよう。
だが、こうしたことを三菱資本はだまって甘くは見ていなかった。 労働者のこの勝利も、翌
明治四一年(1908年)一月の再度の待遇改善要求には、全く敗北してしまった。
というのは、こうして要求をかちとり、闘争のきっかけとなった送迎船問題も、一年間をかぎっ
て廃止が延期となり陸路または手舟で通勤するものには、一回につき五銭の手当をうけて、
陸路または手舟で通勤した。
一年間が経過した四一年、会社はとうとう送迎船を廃止してしまった。
この機会にふたたび賃金増額の請求をしよう、という声が職工の間にひろがり、一○人、
二○人、も労働者有志による懇親会が各所に開かれた。
しかし このような会は、必ず警官にかぎつけられ、解散を命ぜられた。
また地方新聞は、「職工中に社会主義者ありて たくみに蜚語をはなち、職工を扇動しつつ
あり。・・・・」などと書きたてた。
三菱造船所の職工は、こうして動くことを封じられた。これをのりこえ自発的に労働組合を
組織するところまでは、彼らは成長していなかったのである。
また これを裏はらに、当時日刊「平民新聞」がこの三菱長崎造船所のストライキを詳細に
報道したにもかかわらず、当時 社会主義といわれた。
人々が、なぜこの争議に強い関心をしめさなかったのか、また足尾、別子銅山の争議のみが、
今日でも わが国における当時の代表的争議として、人々のうえに知られ、地元長崎において
すら、いや 今日の三菱長崎造船所の労働組合活動家の中においてすら、知られていないの
はどうしたことだろうか。