この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



正月がくるというのに、薄汚いユカタを着、肌さす寒い冬にも、素足に ひとの履物などをつっか
けて 上り酒(晩酌)一杯の よいに寒さをしのんで、鼻唄をうたいながら 二、三人づれで女郎屋の
軒をくぐり、化粧した遊女たちの、やすい脱粉の香りをかぐことを たのしみながら ひやかすだけで、
女を購う金がないもののつねとして、冷たい浮世の風に背を向けて、ふたたび大納屋にかえり、
火の気のない部屋の畳に 煎餅蒲団に顔をうずめ、しがない夢路をたどったのである。


しかし そうした坑夫たちの生活も 身体が健康なときはよかったが、一度病気にかかり、床に
つくことになると、たちまち悲惨な運命にみまわれた。


一日、二日、三日と作業を休んで ねることによって、生活は窮迫し、飯場代、タバコ代、酒代
などに困り、納屋頭(合宿主)の冷酷な態度と毒舌にあって、そのときは自己反省のときが
あっても、やがて病気がよくなり、働きにでるようになれば、また遊蕩癖がでて、稼いだ金を
つかいはたし、そのうえ同僚や納屋頭に借金して、こうしたことが ついに不義理の借財をかさね
稼いでも稼いでも、自分の手ににぎる金は少なく、文無しのことがしばしばあった。


また 稼ぎをおこたるものには 納屋の「おきて」として、納屋頭より制裁がくわえられた。
しかし こうした納屋頭の叱言も、手きびしい、制裁も、世捨人のように ふてくされた坑夫たちには
なんら反応もないようで、自分の気がむく日に作業にでるか、むかないときには病気といって
稼ぎをやすみ、一週間も、一○日あまりも、納屋の蒲団のなかで横たわり、夜ともなれば女郎屋
の軒灯をしたって、ひやかしてまわるという生活であった。


そうした生活のかさなりが、ついには坑夫をこの島の生活に倦怠と不満を起こさせる結果と 
なって、他の炭坑かあるいは都市に職出しようという気になりはじめ、その考えがしだいに
つよくなるが、さて数百円に上る借金にしばられた身の不自由さから、正式に許可をえて退島
することもできず、ついに脱島することを考え、決意させてゆき、二,三人の同僚とその機を
ねらい、納屋頭や監視人のすきを伺って 脱島を行うのである。


この脱島者の多い時期は、高島では春から夏にかけてが一番おおく、その方法は、脱島決行の
数日まえから周到な計画をたて、海をわたるための必要な資材を準備した。
その資材はおもに、大きな坑木や丸太を 数本ならべて結びあわせ、「いかだ」のようなものを
つくり、用意ができれば天候をうかがい、雨もようの暗夜や、闇夜、あるいは真夜半をえらんで、
そっと納屋をぬけだして海辺にゆき、所持品を頭上に結びつけ、真裸体になって用意の「いかだ」
を海に浮かし、それにすがりついて近隣の島や陸地をめざして 泳ぎ渡るのである。


この脱島は、計画をたてて 決行にこぎつけるまでの苦心は なみたいていではなく、全く生命
がけのことであった。
この脱島が成功すればよいが、事前に納屋頭や監視人に発見されたり、いったん海に入っても
疲労と空腹におそわれ、泳ぐちからがぬけ 漂流しているうち、附近の漁船に発見されて、
ふたたび島につれもどされることがあり、たまたま運良く目的地へ泳ぎつき、ほっと一息つくと


同時に付近の農家か あるいは人家などにかけこみ、言葉たくみに家のものをだまして、食べ物
をもらい空腹を満たして長崎方面へ逃走しようと、意気ようようと長崎にむかったとたん、彼等の
脱島を察知した監視人たちが、彼等のゆくてに網をはって待ち構え、「御用」とばかりに捕えら
れるのである。
この監視人たちは、かねてから脱島者の監視にあたるため、要所、要所に配置され、脱島の
しらせがあると警告してまわっていた。


この人たちは脱島者が家にはいってこないように 雨戸をかたく締めるのだった。
また たとえ脱島者が、空腹と疲れのためフラフラして歩いているのを目撃しても、これに同情
したことが、後で監視人らに知れると、とんだ因縁をつけられることをおそれて、構わなかった
のが通常であった。という


捕えられた彼らは、島へつれもどされ、土間に坐らされ、多くの人びとの監視のなかで、鉄拳や、
青竹、木刀などで打ちたたかれたり、足げにされたり気を失い、足腰たたないまでに叩きのめ
されるのである。
しかし 一見やばんなように見うけられる制裁は、こうした脱島などを企てる他の者にたいする、
一種の見せしめにもしていた。


こうした当時の高島炭礦に働く坑夫たちは、人間としての生活から切り離された一個の牛馬と
おなじく 働く奴隷のようなものであった。
時代は流れて、この「鬼が島」とうたわれた 高島にも遅ればせながらも、時代の文化がおとずれた。
そして いつとやなしに こうした昔の悲惨な高島炭礦の尊い歴史も 人びとの脳裏から忘れさられ
ようとしている。


終戦後急速に変化した 今日の高島では、「坑夫」はいなくなった
そこには三菱大独占資本を向こうにまわし、みずからの労働条件改善のため、堂々とモノを
いう組織労働者となり、「三菱高島炭礦労働組合」に結集された「高島炭礦労働者」となった
のである。


無縁塚
明治初年、金堀社宅 敷地内に「無縁塚」が建立されたとしてあり、「千人塚」とともに、多くの
人に弔られてきたが、いまは その跡さえ発見できない。
近くの雑草のなかには 何基かの墓碑を見ることができるが、「無縁塚」だとすることはできな
かった。
この島に 縁故のない坑夫たちが、病気や事故で死んだのを悼み、その冥福を祈るため、この
塚を建立し、香華などをたむけて供養したものであるが、その塚の存在すらいまや記憶する人
も少なく、草木のしげるままに まかせていたようである。


千人塚
野母半島をのぞむ百万崎社宅上部の山腹にある。約四坪ぐらいのコンクリート製納骨堂があり、
この納骨堂には大、小無数の人骨が無造作に なげこまれている。
その供養塔の碑面には供養塔 大正九年四月建立 高島炭坑 と いとも簡単に 書き彫ざまれ
ている。 他には何も残されてはいない。
誰の骨かもわからない。 おそらく以前から この島のどこかに埋められていたものを、三菱資本が
そのおり あつめて供養塔としたものにすぎない。
この供養塔の碑は、海からは注意して見ると容易に発見することができるが、納骨堂にゆく途は、
雑草がおいしげり、急な坂は雑木林のなかでよじ登ることさえ困難であり、塚の下に立ち並ぶ
百万崎社宅の人々ですら、今日だずねても よくしられていない哀れな塚である。


高島の桜の名所として「弔祭場」がある。 では なぜ華やかな桜の名所が「弔祭場」というのか、
その起源をたどれば、人心を寒胆させる一大惨事のあったことを物語る必要がある。
碑文ならびに碑面をよむと その由来がはっきりとしてくるわけであるが、高島の裏側にある
蠣瀬抗ガス爆発の惨事がおこり 死者三○七名 重軽傷者数十名におよんだ、明治39年
(一九○六年)三月ニ八日の三菱高島坑業所はじまっていらいの一大惨事をしのぶ 文献である
この惨事によって死亡した坑夫の霊を弔うため、供養をおこなった跡に、今や春となれば、
桜見に更けるのである。
そこには 三菱資本の冷酷な しうちのまえに、多くの名もしれない坑夫たちが、惨酷にも殺され
ていった ものであることを、正しく理解するものが はたして幾人いることであろうか。