この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



高島炭礦の惨状


わが国の炭礦の中で、大牟田の三池炭礦とともに、歴史の古い高島炭礦には、いまだ人々
に知られていない多くの秘められた歴史がある。
この高島炭礦には又 炭礦労働運動史上にも多くの悲惨な物語が、あるいは言い伝えられ、
あるいは今日それが多くの記録や、証言となって あきらかにされている、炭礦の歴史は悲惨
の一語につきる。


三井、三菱、住友などの日本大財閥を育成しえた基盤が炭礦労働者からの搾取であったこと
は誰の眼にも明らかである。
体力の限界を超ゆる重労働、地底深く十数時間も 鞭に追われた労働者は、朝に星影を仰ぎ、
夕にまた星影を見る  ― 太陽を忘れた人々であった。
僅かの前借金は 雪だるま式にぼう張して、これが鉄鎖となって終身 足を洗うことができなかった。


歴史の古さを誇る高島は、労働者虐待の歴史に 痛恨の血涙をにじませる。 「鬼が島」が通称で
あり、筑豊方面の者たちさえ、高島と聞けば身を震わしたという。


資本にとっては労働者、炭礦夫は「働く機械」であり、しかも圧政と弾圧の中では無限の馬力
を発揮する道具であった。
職制は絶対であり、女房を横取りされても 逆らえなかった。
「ケツワリ」と称する 島からの脱走、それも到底望みがなかったが、それでも何人か、いや何十
人かの人々は 海中最後の力をふりしぼって、地獄からの解放をもとめたのである。


捕えられた後の私刑は到底 ここに詳述できるものではない。 今も残る「千人塚」に 無縁の者の
白骨が るいるいと積まれている。 皆これ資本主義の犠牲であった。
ここに争議とあるのは、判然とした団結と、統一した行動、指揮系統はなく、いわば一揆的な
ものであり、むしろ圧政に耐えかねた労働者の自衛の暴動と見るのが正しい。


明治  三年(1870年)  四月三日   坑夫、賃下げに反対して暴動
明治  五年(1872年)  五月      坑夫が暴動
明治  五年(1872年)一一月一六日  坑夫二百、外国人技師に暴動
明治  六年(1873年)  二月      坑夫が暴動
明治一一年(1878年)  七月ニ七日  坑夫、賃上げに要求して暴動
明治一三年(1880年)一一月  四日  坑夫、数百が暴動
明治一六年(1883年)  九月二四日  坑夫、数百が暴動
明治一八年(1885年)一一月       坑夫、賃下げに反対して紛議
明治二○年(1887年)  八月  三日  坑夫が暴動
明治二一年(1888年)  六月       坑夫虐待が社会問題化
明治二二年(1889年)  一月  一日  新規募集の坑夫が暴動


明治二一年(1888年)雑誌「日本人」六号に 高島炭礦の坑夫の虐待を 世に大きく訴えて
いらい 当時このことが問題化された
高島は 長崎市郊外に浮かぶ周囲4キロ程の小島で、江戸時代から石炭の採掘で知られていた。
明治一四年(1881年)四月、岩崎弥太郎に譲渡、その後、ながく三菱の高島炭礦となった。


労働者をひどい低賃金で酷使し、虐待を加えていた。 労働条件が悪かったので、数百名もの
坑内労働者を集めることができず、囚人も使役していた。
どれい的な労働をおそれて、長崎辺では坑夫になりてが少なく、遠く京阪から労働者をだまして
連れてくる ありさまであった。


高島炭礦へ出稼ぎにゆくといえば、その一家、親族のものは、まるで死地にでも行かせるような
気で、「高島へ稼ぎに行けば 再び帰れない」といって、極力やめさせようと つとめた。
それも無理に振り切って行くという時などは、「これが この世の別れだ」といって、水盃で一生
の別れを惜しんだ。


坑夫の就業時間は十二時にして、三千の坑夫を大別して、昼の方は午前四時に坑内に下り、
午後四時に納屋に帰り、夜の方は午後四時に坑内に下り、翌日 午前四時に納屋に帰る。
そして作業中は、一分一秒の休みも与えられず、「汗は流れて 総身洗うがごとく、空気は少量
にして 呼吸はなはだ苦しく」、
採炭の個所を巡回、監督しているので、しゃがんで休むこともできなかった。


賃金をもらっても 食費その他の名目で納屋頭にしぼり取られ、借金はふえるばかりで、「父兄、
親族が金を持ち来たりして 納屋の負債を償い、その身を購い」
連れ帰らないかぎり ここから抜け出す途はなかった。 郷里へ手紙を出すことは 許されなかった。
そこで「脱島」をくわだてずにはいられなかった。 が懲罰はひどかった
坑業にたえずして脱島を図り、事成らずして海岸取締員に捕えらるるや、その脱島未遂の
坑夫を懲戒するに、あるいは蹴り、あるいは打ち、あるいは倒し、あるいは釣り・・・などの暴行
が加えられた。


逃亡坑夫を さかさまに釣り下げ、生松葉をくべて いぶしあげ、苦痛の叫びをあげると、口を縫い
閉ぎ、肛門に薪木を突きさし、ついに殺してしまったりした。
医療施設が乏しい頃のことだから、病魔におかされて高熱などをだし、数日間 働くこともできず
病床にふすものや、赤腹(赤痢)や長期の病床人は、病気が他に伝染するとの口実で、俵など
につめ、石をむすびつけて海中に投げいれ、まだ生きている人間を殺すなど 平気でおこなって
いた。


明治一八年(1885年)の夏、この島にコレラが流行したとき、三千名の坑夫のうち 八七五名が
死亡したが、死んでも死ななくても、発病して一日たつと 海辺の焼場に送り、鉄板のうえに五人
十人まとめて焼き殺してしまった。
三千の奴隷を 如何にすべきや 欧米の奴隷は異邦人より なりしが、奴隷禁止のわが国において、
同邦人、同種族を奴隷とするものあるは、そも何の怪事ぞや 


こうして高島炭礦の惨状は、大きな社会問題となり、各新聞、雑誌社も現地に特派員をおくって
いっせいにとりあげた。 政府も黙っていられなくなり、警保局を派遣し調査させた。
明治維新より大正末期にかけての、炭坑夫の生活は、都会のひとたちが聞いておどろくような
殺伐としたもので、そのころの人たちの文化水準が いかに低かったかということがわかるので
ある。


この高島では 脱島者のことを「けつわり」とよんでいる。 脱島 つまり島より逃避するために いろ
いろの策をこらして島を離れようとする。
脱島の途中発見されたり、捕われたものには 苛酷な制裁が加えられるのである。
この島の坑夫たちのたのしみは、酒をのみ、女を購い、賭博をすることであり、収入はこうした
酒、女、バクチにあけくれ 気ままに放じゆうな毎日をおくることが、我が人生とたのしんだもの
である。


大正末期頃の独身坑夫たちのほとんどが、稼いだ金を貯えるとか、老後の生活の糧とかいう
考えなく、 ― 宵越しの金は使わぬ といった気風と、ムダづかいで、妻帯して一家をかまえる
などという気持は皆無で、いたずらにその日その日をおくっていたものが多かった。