この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。
長崎における労働運動の分裂
九州において、牙城であった総同盟は、大正一五年(1926年)一二月四日 総同盟 第二次
分裂とともに、今村 等 以下全員・全組織あげて組合同盟となっていたが ともに もともと
総同盟であっただけに、分裂ごも、うごきについて注視していた。
長崎においても、そのご 幹部間に意見が おりあっていなかった。
ともにそれまで、苦境をともにしてきた 今村 等と伊藤卯四郎とのあいだに、決定的なまで
溝がふかまっていた。
昭和三年(1928年)一月三日 伊東らは総同盟に復帰をねがい、復帰大会を開催し、
あわせて組合同盟からはなれ、べつに『長崎労働組合』を結成し、組合長に伊藤卯四郎を
えらび、事務所を稲佐町においた。
ここにおいて長崎の労働組合も 完全に二つに分裂してしまった。
長崎新聞の記事によれば、当時 このことを次のように報じている。
長崎の労働組合、二ッに割れて いがみあう
伊東派 総同盟復帰の旗揚げ、牙城は堅しと 今村派 各声明書に 殺気漂ふ
さきに、組合同盟から、裏切りものとして除名された同志とともに、伊藤卯四郎は、ともに、
いよいよ 総同盟に復帰することになり、去る三日 長崎市岩川町において復帰大会を開き、
ここに 総同盟長崎が成立したが、役員として それぞれ就任し、 同組合の発展に努力する
ことを申合せ、同時に声明書を一致承認し 発表した。
声明書
吾等は 社会運動の指導精神に、政策を高揚しつつある組合同盟が 架空的理論に眩惑し、
組合運動を侵害され、戦術不覚に陥り、只 最高幹部の虚栄に汲々たるの状態を知る。
吾等は 現実主義をモットーとして邁進する以上、現実主義が何たるやを 徹底的に知る事は、
最後迄 確実に戦ひ抜く事である。
吾等は 現実運動の認識と、『組合同盟 最高幹部』の政治的 野心運動に対する大否定の
下に、敢然と立って 組合同盟を脱退し、総同盟に復帰する事を 声明す
一年前の総同盟分裂脱退は間違っていた、大正一五年一二月四日、総同盟 中央委員会は
無産政党に端を発し、中央最高幹部の感情衝突が爆破して分裂脱退となったのである。
此の分裂脱退は、日本の労働運動に 多大の衝撃を与へた 痛恨事でもあるのだ。
元来 労働組合は、労働者の城塞である、労働者は大同団結の強大勇猛な労働組合を
城塞
としてのみ経済的にも政治的にも、向上改善の為、勇敢に戦う事ができるのだ
昨年の分裂脱退の原因は、政党問題と 最も恥ずべき 感情衝突とではなかったか、労働運動は、
幹部の意見に 如何なる相違があろうとも、完全に、労働者大衆が 最後の決定的承認を
与える
迄は、絶対に分裂しては ならぬものだ、何たる専制振り!
分裂脱退は政党問題と幹部の感情理由以外には、何等の根拠もなかったのである。
労働組合運動に対する 主義主張は勿論、思想的にも、指導精神の点に於いても、相違が
なかった事は、分裂当時の『中央委員会』の議題を通じて見て明らかである
労働運動の本流を没却して、『分裂脱退』を 組織した組合同盟の 指導精神に亀裂が生ずる
とともに、加盟組合員の脱退と 復帰は 日に日に如何に多きか、必然の真理である。
総同盟より分裂 脱退し、横暴と専断とを 逞うしていたのだ、しかるが故に 吾等は、不純な
動機によって結成された組合同盟を脱退し、労働運動の正しき本流に帰れと叫ぶものである。
吾等は、日本の労働運動の状態と、労働組合の実勢力を冷静に観察し、そこに、吾等の
運動精神を規定することが 最も必要である
日本の組織労働者の数を見よ!僅か『百分ノ十』以内ではないか?
此の貧弱な組織数を以って 組合系統は英雄割拠的に分裂し、総て中央幹部の机上論の
衝突と感情問題と内面闘争に汲々として、相対立するの 止むなき状態にあるのだ。
しかも、中央本部の理論 対立闘争指令は、無意識的に 地方組合の対立闘争を激成し、
結果は資本家の組織的攻撃と 圧迫に耐え切れず、破壊に離散の 大ジレンマに陥る組合数の
如何に多いかを知れ。
此の責任は、机上理論と感情、野心等に依ってのみ 全労働組合運動の指導精神を決定して
いる『中央幹部』の責任にあるのだ、一部 幹部の感情的概念論を以って、たゞちに、大衆の
要求なりとして 欺かんとはするか?偽善的な仮面を?げ而して、労働大衆に謝罪せよ!
如何に彼等が 政策を口先ばかり百万篇 オダイモクを唱へようとも、戦術として利用価値を
認識することが出来なければ 『闇夜に鉄砲』で 殆ど手応へがない = 益々離間する
何故なれば、大衆の切実な要求を無視しえかゝるからだ、無産労働大衆は決して理論闘争に
よって 組織化されて行くものではない、我等は概念的な偏見を一掃し、無産大衆に拠って
結成した一七年の歴史を有する総同盟の、運動の本流を 大衆と共に我々は支持す。
実社会運動の戦貌に立つものは 其の国の国情、民族性、資本主義過程に於ける
社会環境を
明確に把握し、『勇敢』に『積極的』に猛進する 鉄の如き 意気と熱とによって
始めてそこに
秩序あり、統一ある結成が有効に大衆と共に駆って日本社会運動の使命を果たす所である。
組合同盟 組合員 大多数は脱退し、名実伴う『長崎労働組合』を 結成す
昭和三年一月六日
日本労働総同盟 長崎労働組合
裏切り者を 蹴っ飛ばせ 組合員から一人も脱退せぬ 同志奮然として 戦いへ
今村 等の統率する組合同盟では、激越なる文字を連ねて反駁声明書を八日 発表した。
声明書
我が組合同盟より除名した 伊東に依って組織された組合、総同盟と云ふ団体の肩書を付けた
長崎労働組合より発表された声明書に、組合同盟 組合員の大多数が脱退した如く 書かれて
ありたるも、一人の脱退者もなく、之れ実に 事実無根の虚構にして、結成されたる
労働者階級
の陣営を攪乱し 労働者を喰者にせんとする 伊東の陋劣なる狂言に過ぎさることを証明するもの
である、声明す。
組合員 同志諸君は奮然として 支配階級と戦ふと同時に、裏切り者をも蹴っ飛ばされん事を望む
昭和三年一月八日
日本労働組合同盟長崎合同労働組合
以上の新聞記事より、当時の運動が中央において、総同盟の第一次・第二次につぐ分裂は
これと並行して、政党も 日労党と社民党とに分裂し、この悲哀は、そのご 長崎においても、
今村派は日労党を、伊東派は社民党へと 必然的に分裂していったのである。
また こればかりではなかった、昔はともに苦楽をわかって闘ってきた同志たちが、双方の
勢力争いと、運動上の衝突から、あってはならない 物理的まさつがおこってみたり、又
あるときは 暴力沙汰さえおこった。
こうしたことから 伊藤卯四郎は昭和五年(1930年)の末、想いでおおい長崎をあとに、
北九州労働組合へと赴任していった。
この冷たいシコリは 永く戦後まで続いていくのである。