この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



長崎の仲仕争議


(その一)
昭和二年(1927年)五月、長崎において 初めてメーデーが実施されたときである。
この五月にはいって、長崎市民の 眼をうばったのに 仲仕争議がある。
争議の発端と なつたのは つぎのようである。
鉄道省が各駅における運送店を、一駅に一店とする方針を とつたことである。
それまで長崎には、駅 取扱いの運送店が 市内に一一店あった。


これが五月一日より合同して、新会社「長崎合同運送株式会社」を設立し、あたらしく発足
することになった。
また、一一店に それぞれ専属のように雇われていた仲仕たちは、二二六名 全部そのまま
新会社に ひきつがれることにはなったが、従来の仲仕の世話役を、今度は会社が一方的に
選任したことと、その他 労働条件がまえの運送店のときより、低下するのに不満がおこった。


これがもとで仲仕たちは、会社に役員の公選 その他労働条件についての五条件を提出した
のに はじまった。 仲仕たちは、要求書を提出するとともに、今村たちに応援をねがい、駅前
のカフェー前に、「長崎駅仲仕争議団本部」の立看板を かかがけて がんばった。
回答期限になっても、なんら 会社から回答がなかった。
交渉委員一○名をあげて 社長と交渉したが、なんら とりつくところがなかった。


争議団は 本部を大黒町にうつし、本格的に荷役ボイコットの戦術を とることになった。
そして連日 会社と交渉をかさねていった。
一七日になり、ついに会社もおれて、交渉は妥結した。
協定書に両者 調印して解決した。


協定書の内容は、仲仕の世話役の役員は 従来どおり公選としたが、その他の労働条件は
両者の主張を 折ちゆう したものであった。
この調印当日、長崎仲仕組合が結成され、組合同盟に加入した。 しかし 組合費も払わず、
いつのまにか消滅してしまった。




(その2)
三菱礦業会社長崎出張所に所属する 石炭仲仕の会社支給賃金は、一ヶ月 一六・七円で、
大部分が市役所 その他 雑役をして、べつに五円位の収入を得て やつと生活していたほどで、
かねてから 強い不満をいだいていた。


昭和二年八月二○日、仲仕 六○○名と、日傭 一五名で組織していた労睦会は、会社に待遇
五ヶ条の要求書を提出したが、回答期限であった二三日、会社は要求書の全部を拒絶してきた。
労睦会は、ただちに争議団本部を 松ヶ枝町の海岸通りにおき、組合同盟に応援をもとめた。
たまたま 同会社の会長が来崎して、仲仕代表と会見し、会社は誠意をもつて 解決にあたる
から要求書を撤回するよう 尉諭したが、争議団はこれに応じなかった。


争議の前進は きわめて険悪化していった。 一方 会社は石炭積込みを開始した。
争議団はついに このスト破りと、日傭の暴力団らに実力でもって当たるとの強硬手段をとる
ことに決意した。
これをしった会社はあわて、妥協的 意志にひるがえり、二九日 両者の歩みよりで解決した。