この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



第一部 明治編


労働運動の父 高野房太郎


労働組合運動史で、長崎にまつわる この種 運動史を記述するについて、是非ともここに紹介
しておかなければならない人に、高野房太郎の人知れず、残した運動上の足跡がある。


明治元年(1868年)一一月二四日 長崎区銀屋町に生れた。
明治一九年渡米し、いらい、十余年のあいだ、アメリカ各地を転々として 労働と勉学に励んだ。
その間の苦労は 大へんなものであった。 皿洗いもやり、コックなどもした。
彼の目に映った当時のアメリカは、脅威であった。


渡米した明治十九年(1886年)の五月一日には、「八時間労働制」を要求して立上った
アメリカの労働者のゼネストが、弾圧下で決行され、五月四日は罷業団と警官隊との衝突が
激しかったシカゴでは、「へイ、マーケット広場事件」とよばれる 謎の爆弾事件が起こり、
多数の死傷者を出し、又この事件を理由に、四人の指導者がデッチ上げで処刑された年でも
あった。


房太郎は アメリカ資本主義の富と文明、そこで働く労働者の生活状態など、日本の労働者と
比べて 雲泥の差があることを発見した。
そして彼は、アメリカ資本の結合に対して、労働者の結合があるからだと知り、「北米合衆国
の労役社会の有様を叙す」の一文を、日本の新聞に送っている。


彼は アメリカにおける労働者の状態が、団結(房太郎は“結合”と称した。)の力によって
いかに向上したか、彼らの組織する労働組合の規約はどうであり、その行うストライキの
戦術は いかなるものか等を具体的に書いている。
これは アメリカの労働組合運動に関する まとまった資料として、日本最初のものであった。


さらに彼は、日本の労働者の状態を論じて、これを改善するように提示している。
日本の労役者の現状を見よ、社会の組織は平等を欠きたるが為に 彼等は空しく不正なる
勢力を要す。
彼は強大なる勢力を以て 徳義的に実利的に秩序あり、識見の運動によって、労働者の惨状を
救う道は、「協同一致の作用あるのみ」と論断している。


明治二三年(1890年)夏ごろ「職工義友会」という 欧米諸国の労働問題を研究する会を創り、
やがて日本に帰ったら、この研究の成果を労働組合運動に 役だてようとしたのである。
明治二九年(1896年)末「日本で労働組合を結成する時機が到来した」と判断し、アメリカで
研究した成果を、日本に育てようと 夢を抱いて帰国した。


そこには一つの理由があった。 日本の日清戦争勝利は、日本資本主義の基盤をつくり、
日本経済躍進の機会となり、この時機に、わが国の産業は急速に発達し、大工場が新しく
どんどん建設され はじめていた。
それにつれて、新しい型の労働者が急激にふえ、これまでの ギルド的職人労働にとって
かわろうとしていた、いわば日本の、近代的労働運動の歴史にとって、画期的な年となろうと
していたのである。


明治三○年(1897年)四月六日、工業協会の主催で、東京神田の錦輝館で演説会が開かれた。
集まった数百名の労働者を前にして、房太郎は、労働者の組織化と団結を力説し、アメリカ
労働組合運動の実情を説き、また労働組合のつくりかた について話した。
こうして七月四日、労働組合期成会は成立し、房太郎はのちに幹事長となった。この労働組合
期成会は まだ労働組合そのものではなかった。


「期成会」という名称がしめしているように、それは労働者に、労働組合をつくるようよびかけ、
又準備するための団体であり、房太郎のいわゆる「労働組合の学校」でもあった。
その結果、ついにわが国最初の労働組合である鉄工組合が一、一八四名で、明治三○年
(1897年)一二月一日、東京神田の青年会館で発表式があげられた。


それから一年、期成会の活動とともに労働組合がつぎつぎとできた。 しかしよいことばかりは
なかった。 なお大きな困難が横たわっていた。
アメリカとちがって 日本の労働者の組織化は、その説得が如何にむつかしく 忍耐を要るものかを、
彼は 身をもって思い知らされた。


こうした房太郎に決定的な打撃をあたえたのは治安警察法の制定であった。
つぎつぎに結成されていく労働組合の組織力や、社会主義の怪物に恐怖を感じた政府は、
これが成長しない幼児のうちに、これを圧殺する腹を決めた。
明治三三年(1900年)三月一○日、治安警察法が公布された。 これによれば、警察官は、
賃金や労働時間について、演説したり扇動したりすることが できるようになった。
この後、当然にも わが国の当時の運動は、急速にすい退していった。


房太郎はこの年の春、日本を去り 清国に渡った。 なぜ日本から去らしめたのかは、彼が望みを
抱いて アメリカより日本に帰国し、労働運動を育てようと努力をしてきたが、
それが治安維持法で できなくなり、焦燥と失望を与えたのかもしれない。
それから四年目の明治三七年(1904年)三月一二日、高野房太郎は清国、青島のドイツ病院で、
肝臓膿瘍という 不治の病で病没している。 数え年三七才であった。
死亡する一カ月前である二月一○日は、日本がロシヤにたいし宣戦を布告した、いわゆる
日露戦争ぼっ発のときでもあったことを付記しておきたい。




東洋社会党と樽井藤吉


明治一五年 五月ニ五日、長崎県島原の江東寺で、奈良県出身の 民権論者であった樽井藤吉に
よって、東洋社会党は結成された。
この党の目的は、貧しい民衆、とりわけ農民を救い、身分を平等にして、商業的利潤を廃止しよ
うとするものであった。 また党名を「社会党」をうたったのは、日本最初のものであった。


出島のイギリス人宣教師に会い、ヨーロッパに“社会主義”の思想が、民衆のなかに浸透して
いることを教えられた。
彼がまず考えたのは、商業的利潤の廃止であった。 ときの大臣岩倉具視に 商業制度を廃止して、
協同販売制をとるべきことを進言したことがある。


樽井が道徳主義を高調した点を重視して、東洋社会党を無政府主義政党だという論者もある
ようだが、一切の悪の根源が権力にあるとして、テロリズムで権力の覆滅を企図したところの、
西洋の虚無政党とは主義、思想は違っている。樽井は国家社会主義者というのが妥当である。
農民は高い地租と、増額された地方税と、二倍以上に引き上げられた 間接消費税の支払いに
こまり、多くが破産し、土地を差し押さえられた者、公売されて土地を失った者が続出し、しかも
政党は、地方の官憲とともに、この高利貸資本の活躍をむしろ「法」の名で援護していた。


こうした金貸の不当、官憲の弾圧に対抗するため、負債民は団結したものである。
その後 明治ニ五年の衆議院総選挙のとき、奈良県から出馬し、当選した。
世間では社会主義者が国会に入ったと さわがれたものである。
今日 長崎県では勿論、出身地の奈良県においても わすれ去られようとしている。