自治労長崎県本部 青年女性部 書記次長
「12・8不戦の日、平和を考える集いを始めます。 本日、講演を頂く城臺さんは爆心地から2.4km
離れた立山で被爆しました。 主催者あいさつの後、講演して頂きます。」
長崎県平和運動センター 事務局長
「コロナ禍で今の政府は政策はないのか。 平和センターとしては必要な集会を、感染対策をしなが
ら行っていきたい。 政府・自民党内でイージスアショア断念の代わりに敵基地攻撃能力の話は、
専守防衛ではない。 先制攻撃は真珠湾と同じ、だんだんこういう考えが広がるのは怖い事で、
長距離ミサイルの計画もあり、相手国を先に攻撃するとなる。 今までと違った社会が形成されよ
うとしている。 きちんと人権を守る考え方を国民が持てば、戦前のような世の中にはならない。」
城臺さん (長崎県退職女性教職員の会) 『私が今なぜ語り継ぐのか』
「長崎大学を出て小学校教員になり、在職中に子どもたちに原爆の事を教師が語ると変な目で見られ
た。 語った為に、五島に転勤させられた。 平和集会で平和としただけで校長はアレルギー。
七夕集会にしなさいと。 集会で話をしても、校長は聞きたくないと逃げた。 長崎の話は長崎でして、
五島は関係ないとハッキリ言われ、五島の子どもは大人になったら、長崎市に行きますよと返した。
1997年に退職しました。 長崎の証言の会と、平和推進協会に入りました。 協会では、被爆した
のは立山の向こう、6歳やろう何も知らんやろう、ウソは言ったらいかんよと言われた。
私は覚え
ている事しか言っていません。 被爆体験だけじゃダメだと気付き、どうして戦争になったのか、原
爆が落とされたのかを話し、今の問題を話さなければとなっていった。 核兵器禁止条約は、50の
国がハンコ押す事を決めたんだよと、子どもたちに話します。 核を持ってる国は入ってないんだよ
と言うと、日本は持ってない入ってるの?と聞かれ、入ってないと言うと、子どもはエーッとなる。
日本の大臣は原爆資料館に4人しか来ていない。 被爆者の声を聞かず立ち去る。 戦時中の経
験もない大臣たちは、見ようともしない。 実際に戦争になったらが想像できない、デタラメでいい
かげんな事を言う。 国民も騙されているので心配しています。 平和についての概念。 自分た
ちにとって、平和ってどんな事だと思う? 子どもたちは、友達と遊べる事、学校に行ける事、ご飯
が食べられる事と言います。 75年前、本当に食べられなかった。 原爆の時も何を食べたか覚
えていない。 平和の和は食べ物、みんなが食べられる事が平和。 進路を自分で決められるの
も平和。 当時は兵隊か、看護婦か、子どもを産むかだった。 勤労奉仕で穴堀りがあった。
近所の石垣や家の床に穴を掘った。 夜になったらサイレンが鳴り、寝られなかった。 探照燈/
サーチライトで飛行機を探し、動めくのが気持ち悪かった。 飛行機の音がゴーッとする、眠れない。
真珠湾攻撃でハワイに落とした爆弾は長崎製だった。 長崎では魚雷や爆弾工場、造船では戦艦
武蔵を造っていた。 女子学生は爆弾作り、一生懸命作っていた。 学校では運動場を畑にする。
目や耳を塞ぎ、地面に伏せて内臓を守る。 6月くらいから毎晩サイレンが鳴る。 寝ても起きない
といけない。 布がなく、ありあわせで祖母が作ってくれた防空頭巾をかぶり、防空壕に逃げた。
これさえあれば、いのちが助かると信じて、寝る時は横に置いていた。 夜中に出たり入ったり。
8月8日、今度飛行機が来たら大人も入れと言われ、8月9日サイレンが鳴り穴に入ったが敵機は
来なかった。 1時間たち警報解除、私も家に帰り、婆ちゃんに『まだ飛行機が来とらん、イモを持
って防空壕に行って食べんねと』言われ、ハイと言えなかった。 腹がいたいと言うと、心配しやさ
しくなる。 長屋でしたから、みんなで遊ぼうと呼びに来た、『婆ちゃんゴメン』とその時、飛行機が
来て、ピカッと光って原爆が爆発した。 上空1万mで落とした。 センサーがあり、八木アンテナ
と言う。 長崎市松山上空500mで炸裂した。 ファットマンはダイナマイトの強い圧力で約6kg
ある、中のプルトニウムがギュッと集まり核分裂し0.1秒後真空状態になり、風が出てキノコ雲が。
長崎市民24万人の内、2万人が即死、6万人が苦しみながらその年に亡くなった。 私は気が付
いたら、声も出ない。 婆ちゃんが呼んでる声、床下から発見された。 山越えで、たくさんの被爆
者が来て恐ろしくて入れない。 町が燃えるのを見た。 8月15日敗戦放送の後、疎開して親戚
を回ったけど入れてくれなかった。 米を少しもらい移動した。 次の家は農家で入れてもらえず、
馬小屋で3日過ごし藁の中で寝た。 蛍を捕まえ明かりにした。 3件目の農家は良くしてくれた。
気丈な婆ちゃんが泣いていたのを見た時、よその家にいる事が、子どもでも辛かった。 1ヵ月近く
お世話になり、長崎に戻った。 福島原発で放射能から着の身着のまま避難した、あの子どもたち
は、私と一緒だと。 小児性ガンに、白内障と放射能の影響が出て、長崎のぶらぶら病みたいにな
っている。 福島の子どもたちを長崎に1週間ほど保養に、2014年から始めています。 今年はコ
ロナでできなかった。 福島の子どもは外に出ないが、何日かで元気になる。 まだ放射能は続い
ています。 福島と長崎は同じような状況です。 原爆の時、立山で、現在の長崎中学校裏の防空
壕に避難して、山の上からゴーゴー焼けている町を見て恐ろしかった。 翌朝、敵機がグルグル回
り、近くに見えて非常に恐怖だったのが今も残っています。 科学者は人間に使ってはいけないと、
国際管理しないといけないとしたが、核の秘密はどんどん拡散した。 75年前の原爆は赤ちゃん、
核は今も成長している、9年後に水爆を作り核融合で400倍が最近1000倍。 永井博士は60年
くらいしたら日本は戦争すると言った、お前たちはしないと言ってくれと。 子どもたちは戦争中の
体験をコロナで少ししています。 自由に今まで通りできない、戦争になったら制約を受けます。」
自治労長崎県本部 青年部長 (長崎県平和運動センター青女協 事務局長)
「菅政権は安倍政治の継承で、今の政府は過ちを認めない。 鬼滅の刃で、弱き人を助ける事は強き
者の責任、他人を傷つけたり私腹を肥やしてはならないとあります。 強い力を持った政治家、資本
主義社会の中で、弱い立場の労働者。 コロナ禍で政府の方針は、経団連と経済政策がとられてい
る。 戦争が無ければ平和な社会でなく、職場での平和はありますか。 平和とは何か、なぜ労働組
合が平和活動に突入するのか。 被害と加害の歴史を後世に継承する必要がある。」
12・8不戦の日 平和を考えるつどい
日 時 2020年12月12日(土)13:30〜15:30
場 所 セントヒル長崎 2F妙見
主 催 長崎県平和運動センター/長崎県憲法を守る会/
平和を守る長崎女たちの会