被爆75周年原水爆禁止長崎集会


日 時 2020年8月8日(土)13:00〜17:00
場 所 長崎市民会館文化ホール


主催:被爆75周年 原水爆禁止長崎県民会議 
自治労長崎県本部 青年部長
「新型コロナウイルス対策で、クラスター発生防止の為、マスク着用でお願いします。 使用禁止の
 椅子には座れません。 被爆75周年、原水禁長崎集会を始めます。 ご冥福をお祈りし、黙とうを
 行います。」


第22代高校生平和大使 内山さん
「署名を集めてスイス・ジュネーブにある国連欧州本部に届ける事ができました。 ローマ法王に黒
 こげの少年の写真を見せて、この惨状を忘れてはいけないと、言葉を頂きました。 今年3月、コ
 ロナでノルウェーに行くことができませんでした。 活動に制限がかかり、オンラインで活動の幅を
 広げています。 微力だけど無力じゃない、これからも活動を続けていきたいと思いました。」


長崎県教職員組合 執行委員長 (長崎県平和運動センター 副議長)
Webを通しての参加者も多くいると思います。 多くの人に向けて話をしたい。 75年が80年た
 ち90年、100年となる。 近い将来、被爆者がいない世界になり、戦争や被爆の実相が遠ざか
 ってしまう。 知らない人が戯言の政治を進めています。 敵基地攻撃能力を持つとは、若い人の
 言い方では、普通に戦争じゃんと言う。 専守防衛の枠組みで、できるとは思えない。 
 漫画、『楽園のゲルニカ』では、3頭身のキャラクターで、ペリリュー島での死闘が綿密に描かれ
 ている。 モノクロ写真だと遠い世界の感じがする、最新のAI技術で着色しカラー化された写真
 は、迫るモノがある。 バトンを引き継いで、今集会が有意義なモノになるようにしていきたい。」
 
原水爆禁止日本国民会議 議長
「あの日から75年、私も80歳になりました。 B29がプルトニウム爆弾を投下して、気が付いたら
 15m程離れた所に倒れて、近くの防空壕に逃げ込んだ。 中では、どこに落ちたか騒いでいて、
 これは広島に落ちた新型爆弾だと言われ静まりかえった。 酷い火傷で逃げて来た人を見せまい
 と、親たちは子どもを奥に押し込んだ。 全ての働く人がお金を出し合い、新しい街並みを作った。
 75年、平和憲法を守り続けてきた。 核兵器禁止条約は発効まであと7ヵ国、日本はどうなのか
 問われています。 安倍さんと自民党の政策を厳しく批判しないといけない。 行動に移しましょう。」


原水爆禁止日本国民会議 事務局長
「基調は原水禁HPにあります、参考にして下さい。 核廃絶への取り組みを提起しないといけません。
 12km圏内で被爆したにも関わらず、被爆体験者と言われ、裁判闘争を続けています。 区分けに
 科学的根拠はありません。 引き続き支援が必要です。 被爆二世の取り組みは、今後の原水禁
 運動にとっても重要です。 高校生平和大使も20年を超えた。 核と人類は共存できない。 
 日本国憲法の理念の元、これまでの原水禁運動に胸を張り、進もうではありませんか。」


全国被爆二世団体連絡協議会 会長 
「私の両親は原爆被害者であり、私は被爆二世です。 父は爆心地から4kmで被爆し、肺気腫で苦
 しみました。 母は7kmで被爆し、最後はすい臓がんで亡くなりました。 私も不安で2ヵ月に1度、
 検査観察をしています。 二世は健康被害や、結婚や就職の差別に苦しんでいますが、公的援助
 を受けられず、放置されています。 核の人権被害、次世代への放射能の影響。 世界には核の平
 和利用による被害者がたくさんいます。 再び核被害者をつくらないよう、訴えていきます。」
 
第23代高校生平和大使/高校生1万人署名活動実行委員会
「私たちの活動も今年で22年、ノーベル平和賞にノミネートされてきました。 長崎では、ほぼ毎週
 署名を行っていましたが、2月からコロナの影響で、できなくなりました。 オンラインで意見交換を
 行い、活動しています。 7月から署名も再開し、困難にめげる事なく活動を続けていきたい。」


自治労長崎県本部 青年女性部 執行委員 
 被爆75周年原水禁長崎集会・ナガサキアピール(一部抜粋) 「1945年8月9日。 生き延びた
 被爆者は放射能の被害に苦しみ、平均年齢は83歳を超えています。 核は放射能という目に見
 えない形で人間を脅かします。 ウラン採掘現場や、原発の労働者たちも蝕み続けています。 
 長崎では被爆体験者や、被爆二世問題で裁判が行われています。 長崎県の被爆者手帳所持者
 数は、最も多かった11万人(1978年)から、3万5千人(2020年3月)となりました。 被爆者の
 悲願である核廃絶と被爆者救済を一刻も早く実現しなければなりません。」


毎年、原水禁長崎大会合唱団と一緒に参加者全員が、『原爆を許すまじ』を全体斉唱していますが、
今年はコロナ禍のため、音楽と映像のみとなりました。
下平作江さん(被爆者) 『被爆体験講話』
「今から75年前、10歳の時に被爆しました。 城山国民学校の5年生だった。 敵機来襲!の声に
 爆風で目が飛び出ないように、親指を耳に入れて押さえて伏せるんです。 低空で飛んで来て機
 銃掃射でバラバラと撃ち、キャーという悲鳴。ガクガクと歯が震える。 防空壕へ逃げて、飛び去る
 のを待ちます。 空襲警報解除という声、アメリカは解除になって爆弾を落とすので、ガマンして入
 っとけと言う兄。 解除になって、みんな出ていき、ヒュ〜ドーン爆風がワーッと来た。 吹き飛ばさ
 

 れ気絶した。 気がついたら、目がぶら下がった人、足が無くなった人、焼けタダレタ人が入って来
 ていた。 兄も息をひきとり、死体がイッパイで出られナイ。 臭くて息がきれそう、妹と外へ行くと
 ビックリした。 家は一件もない、焼け野原。 黒こげの死体がイッパイ。 浦上の線路と川の間を
 母を探した。 家が崩壊して何処かワカラナイ。 真っ黒な死体があり、姉だった。 周囲は死体だ
 らけ誰かワカラナイ。 8月9日夏の暑い日、食べ物もない。 ボロボロの服で母を探した。 その
 気持ちをわかって下さい。 戦争さえ無ければ、違う生活ができた。 


 叔父が助けに来てくれて、別々に預けられた。 妹はウジがわいてイジメられ、家に帰りたいと言
 うので、父の実家に弟を預けて5時間歩いた。 私の家は爆心地から800m、今プールになって
 る我が家に帰り、焼けたトタンでバラックを建ててもらい、そこで生活しました。 川を見るとたくさ
 んの白骨、遺骨が散乱していました。 生き残った者の使命、できる限り拾って穴を掘って埋めた。
 山里小に編入して永井博士に、せっかく生き残ったんだから亡くなった人の分まで生きれと言わ
 れました。 その頃、線路に飛び込む鉄道自殺した人が多かった。 今は高架になっています。


 妹が帰ってこないので探すと、手足がちぎれ頭がありません。 線路の下に転がっていた頭を抱え、
 首から血が流れないように抱えて、なぜ死んだのと。 戦争の悲惨さ、残酷さ。 人間らしく生きる
 事も、死ぬ事もできなかった。 生き残っても自殺していく人。 草を食べながら、死んだら負けに
 なると一生懸命に生きていく。 永井博士が、自分たちの被爆体験を書けと言われ、書きました。 
 原子雲の下にという本にしてくれた。 作文を本にしたら売れたと、お金を分けてくれた。 
 たった一発で何万人の、いのちを奪い、生と死の狭間からがんばっていこうとしても、原爆症という


 名前が付けられない病気。 私も原爆症で何度も手術し、内臓はほとんどありません。 原子爆弾
 の現実は生易しいモノでナイ。 食べる物もナイ、それでも生きていかないといけない。
 9条は戦争をしない誓い。 日本は戦争放棄しています。 次の世代に戦争の悲惨さ、残酷さ、核
 兵器の実相を伝え、戦争のない世界を、どうぞ手を繋いで平和な社会を作って頂きたい。」


特別上映会 映画『ひろしま』
1953年/日本/109分/  制作/日本教職員組合 
監督/関川秀雄、 主演/月丘夢路、他