この作品には一部読みにくい漢字や表現等がありますが、著作物の歴史的価値を考慮して、
制作当時(1972年/昭和47年発行)の内容のまま、抜粋し掲載しております。



第二部 大正編


香焼炭礦争議と今村等


大正九年(1920年)一一月三○日から 一二月一日にかけて、香焼島安保炭坑で争議が
おこっている。
これは当時の新聞によれば、今村等による坑夫の待遇改善、納屋制度の廃止を目的とした
もの とされている。


この香焼炭坑に いつごろからか、のちに労働運動の大御所となった 今村等がいたのである、
今村は熊本県玉名で明治二五年(1892年)三月二三日に生れている。
大正、昭和の激動期における わがくに労働運動の“生き証人”の一人でもある。
その今村が語る“香焼炭礦事件”について記述してゆきたい。


大正末期でも離れ島の炭坑の実情は 一般の職工、工夫などとは待遇や生活状態もかわっ
ていた。 香焼島の この裏側一山こえたところに いわゆる香焼炭礦の安保炭礦があった。
船つき場の本村から、芋畠の段を人々は丸い石の坂段の道を越えて行かねばならなかった。
炭坑には納屋制度がしかれていた。 納屋には大納屋と小納屋があった。
大納屋とは 俗にいう独身者といわれていた合宿所のようなモノで 五、六○名から多いところ
で八○名位はいたという。


小納屋とは 妻帯者をいれる宿舎であったが、こうした小納屋は当時の炭坑はただ働かせる
のが目的だから、はじめからの妻帯者はあまり多く採用しなかった。
納屋は瓦ぶきではなく、皆 板ぶきの屋根で粗末なものであった。 大手炭礦の設備でも完全
とは遠いところの、しかも 中、小のヤマのこうした設備は どこのヤマもいっしょだった。
医者すら この香焼には当時いなかった。


この納屋は七つ八つあった。 納屋では工夫をさしずし、手配するものを“ヒトグリ”、帳面方を
“カンバ”(勘場)、堀進夫を“サキヤマ” 炭を坑内より出す役を“サオトリ” 坑道の悪いところの
修理役を“シクリ”、納屋の飯たき役を“マーカン”などと呼んでいた。
板場の飯たきの“マーカン”はすべて男であり、多いところは三人位、少ないところでも二人
はいた。 朝は三時ごろから起きて、大きな平釜で飯を炊く、水道がないから島の遠くの井戸
より水を運ぶのは、到底 女などには出来なかった。


むこうハチマキで わらじをはいての炊事しごとであった。
炊いた飯を入れるのは、“ツノツキオハチ”といった両方に握り飯のついた大きな桶であった。
それを三つも四つも運んだ。 味噌汁はスリ鉢にいれて持っていった。
弁当を もつてゆくものには、弁当箱もある。 ニギリ飯に だいたいタクアンの漬物であった。
重労働の坑夫であったから、おかずは まづくても飯だけは腹一杯だべさせていたという。


こういった納屋制度は、一見さつばつとしたものであったが、あまり学問とてない無智な人間
にとっては、『……お人よしのバカモンの働き場……』でもあった。
こうした坑夫たちの扱いについて、会社や、納屋頭には非人道的な扱いがなされていた。
かんたんに身元もあまり調べられず、金を借りて入ってくる者、炭坑から炭坑を渡りあるいて
いる者もいた。 これらの多くのものは、娯楽とてないヤマでは、酒と女とバクチが彼らに
とって何よりの慰安でもあった。


こうした中には 仕事を怠けて休むものや、逃げるものもあった。
借金のため苦しいからといって逃げ出しても、どこまでも探され、追いかけられた。
こうした社会には この社会の法律があったわけである。
逃亡者が出ても警察ざたや裁判には決してしなかった。
逃げたものが他のヤマにいるとわかると、“ヒトグリ”が談判にいって、そこの連中とかけあった。


借金の残りを立て替えるか、ださなければ つれて帰ったりした。
直接交渉であって遠廻しの交渉はしなかった。 また これと反対に、人手の足りないヤマの
坑夫を金や口条件でうまく連れだしに行くものもあった。
これをヤマでは”ヒトヒッパリダシ”とよんでいた。
こうしたことはヤマの“掟”で命がけであった。 天草の炭坑では拷問部屋まであった。


こうしたことは他の坑夫たちへの見せしめのためで、納屋の梁に綱をわたし、後ろ手に手の
親指と親指をハスカイに縛り吊るし上げて、足の指先が下につくかつかない程度にブラ下げる。
それを納屋の入口の庭さきにさげて、そこの前を出入りする者に、みな竹で吊られている
その者を、打って通らねばならないことになっていた。
打たれるとクルクル廻ったものだと言われる。このことを“ブリが下がった” “ブリが下がった”
とはやされていた。


また香焼炭礦では他の山でも実施していたところもあったといわれる『炭券』という一種の
金銭にかわる券をだしていた。
ひどいものになると、帳簿に筆で一の字、二の字を書いて、これで一銭・二銭として渡していた。
こうした一種の ヤマ独特の紙の手形が炭坑における金銭でもあった。
これは一ケ月に一度 本ものの金銭に交換できた。
また これは香焼の島でどこでも通用した、本物の金を知らない坑夫たちは簡単に出される
この一片の紙片に、簡単にとびついていたことも事実であった。


なかには こうしたことを かえって喜んでいたものもあった。
炭坑の勘定日ともなると、長崎・佐世保その他から、この島めがけてゴロつきの博徒たちが
のりこんできた。
炭券には「一円」が「千斤」、「五○銭」が「五百斤」、「二○銭」が「ニ百斤」、「一○銭」が
「百斤」、「五銭」が「五○斤」の五種類があった。


警察制度は会社の請願制度で、完全な 会社の御用巡査が 配備されていた。
会社の金で 巡査が警察署から配置されていたのである。
香焼という島は こうしたところであった。
今村等は この香焼炭坑で、大正五年(1916年)友愛会香焼支部を結成し、坑夫の待遇改善、
納屋制度の廃止をさけんでいた。


事件は大正九年一一月三○日から一二月一日にかけて起こった。
香焼村の船つき場本村、そこに料理屋があった。
料理屋といっても、島の遊びどころで、ヤマのものは“いんばい屋”といっていた。
そこに遊んだ朝帰りの組合員が、その帰り、山の坂道をこえてくる途中、こん棒をもった
五・六人のものが、一人の男をつれてくるのに出会った。


それは“シクリ納屋”の坑夫であった。 「どこにつれていくのか」と尋ねたら、
「このものは香焼から追放するため つれていっている」ということだった。
「追放とは どういうわけか」とさらに尋ねたら、
「どうあいても このものは納屋においておくわけには いかぬと、夕べ叩かれて島を追い出され
るところだ」とわかった。


この追放される坑夫が 今村らの坑夫組合の組合員であったころから、会長にだまってやる
わけにはいかぬ ということで朝帰りの組合員が頑張ったところ、このことが知られても まづい
と相手も知って、引きかえした。
すぐさま 会社に抗議におしかけた。 今村らの主張は、こうした坑夫に暴行をするような納屋頭
は整理せよ、であり、これと同時に 坑夫の賃金引上げ、待遇改善を強力に申し入れた。


しかし 会社は頑として聞き入れなかった。
この納屋は、大阪あたりで興業師をしていた暴力団のようなものでもあった。
会社の直系でなく、管轄は大納屋頭の配下に属していたため、会社もおいそれとクビにする
ことはできなかった。
かねて納屋制度の廃止をさけんでいた 今村らの運動は、こうした納屋頭連中にとっては死活
問題であったので、これらの連中は会社擁護の立場にまわった。


この事件は こうした納屋頭連中の しかけた わなに はまったようなものでもあった。
坑夫たちを事務所の外に待たせておいて、今村は談判した。
会社は こうしたことは聞き入れない。
すったもんだ しているのを対岸の深堀の警察署に通報したものがあって、署長が一隊を引き
連れて会社にのりこんできた。


そうこうしている納屋頭連中の差しがねともみえる暴力団が押しかけてきて、外で待機して
いる坑夫たちにむかって乱暴をしかけた。
そこで勢い 坑夫たちとのあいだに乱闘が起った。
石は飛ぶ 日本刀を振り廻わして坑夫らに切りつけた。
これに激ミした組合員もつるはしや、鉄棒などひっさげて事務所に押しかけ、ついに事務所の
窓ガラスを破壊して、突入し、机、椅子、器物など片っぱしから破壊した。


今村らは交渉を中止して制止につとめたが、怒った坑夫たちは なかなか静まらなかった。
これが香焼炭礦騒動の事件であった。      
当時は早朝より、瀬戸分署の署長が指揮した三○人位の警官が 警戒にあたっていたが、
こうした乱闘がはじまると いつのまにか警察署長は行方不明で 雲隠れをしてしまった。
群衆はますます暴れ出した。 そのうち長崎署と梅ケ崎署から 応援の警官隊が総動員されて
上陸し、組合員を全員逮捕し 長崎に連行した。


こうして 今村等らの指導者をはじめとして、七七名が騒擾罪で起訴され、懲役二年の判決で
諫早監獄に服役した。
一方 この事件のため、安保炭坑も いつとはなく廃坑閉鎖された。